先週は、憲法違反の法案が成立する可能性にいてもたっても
いられず、仕事がたまっている中、伊豆から東京に行くのは
大変と迷ったけれど、結局は体が動くに任せた。
昼間は日比谷のホテルで仕事をし、雨が降り注ぐ夜に二日続
けて、国会議事堂前に通った。
法案が可決された夜まで。法案の成立を止められないとして
も、意思表示はしておこう、と思って。

安保法案のことは難しくてわからない、という人がいたとし
ても、憲法違反の法案が通るということは---たとえその法案
が憲法違反であるという確信がもてない場合でも、その可能性
が少しでもあると考えたら---、各世論調査で過半数が反対す
る中、強行採決することがいかに深刻なことか、そして、国会
前で人々が、議員に向かって「憲法を守れ」と訴えていること
がいかに深刻な状況か、ただシンプルに感じられないだろうか。
戦後70年に当たっての大転換と言われる状況に対して。

結果的に考えて、やはり行ってよかったと思う。
その場にいることによって初めて感じたり、考えたりすること
はとても多いし、日常の場にいるよりも、集中的にこの状況に
ついて考え、感じることができる。また、この問題の深刻さを
改めて肌で感じることができた。

こうした場があることについて、デモの主催者に敬意を表する
と同時に、すさまじい数の警官に対しては、威圧的に感じると
同時に、その場の安全を守っていることに対し、やはり敬意を
表する。

デモのコールについては、時に首相の名前を呼び捨てにしたり、
私にとっては攻撃的すぎる物言いだと感じることもある。
ああいう場では、端的な表現になってしまいがち。
そういう場合は、自分で「さんづけ」を加えたり、乗れない時
には乗らなければいいだけのこと。

デモの一側面だけ見て批判してもしょうがない。
数万人が集まっている場では、いろいろな考え方ややり方の人
がいるし、一枚岩ではないのだから。
常に問われているのは、一個人として「自分がどう考え、感じ、
動くか」ということ。
「呼び捨てはやめませんか」と提案しにいきたかったけど、
結局、場所がわからず、近づけず。

一方、学生団体SEALsのスピーカーの話を聞いていて心を打た
れる時もあり、多くの拍手が湧く。それは相手を叩くよりも、
自分自身の心の真実を語っているから。

批判や非難では、意見の分裂を乗り越えることができない。
「平和」を守りたいのであれば、自らが平和を体現することが、
こういう運動を広げて行く上で重要だと改めて思った。
そういう意味では、音楽や詩の朗読といった表現の方法もふさ
わしい感じがした。

この場では、多くの学者が発言していた。今回、政府が憲法学者
を「敵」に回してしまったことも、この運動が一過性のものでは
終わらないのではと思う理由のひとつだ。
安倍首相は、「憲法の専門家の意見なので、われわれもよく耳を
澄まさなければいけないが、憲法学者の役割や責任と私たち政治
家の責任は違う」と述べた。

「よく耳を澄ませた」のだろうか、という疑問もあるが、それよ
りも、「憲法学者の役割や責任と私たち政治家の責任は違う」と
いうのは、論点がずれているように思う。憲法を守るかどうか、
ということを話しているのに、責任の話にする。

こうした論点のずれ、あるいはすりかえに思えることが、今回
の安保法案を巡ってやたら目に付く。学者、とくに法律を専門と
する人たちというのは、基本的に緻密な考え方をする人たちなの
で、論理性や一貫性を欠いた議論に対しては、容認しにくいもの
があるのではないだろうか。

それにしても残念なのは、戦後70周年という節目の年は、静かに
過去の歴史を振り返り、理解を深め、祈りたかったのに、強行採
決を伴う大転換となってしまったこと。
それでも、政府が法案成立を強行に推し進めたため、かえって
立憲主義や民主主義の意識、平和とは何かを考えたり、そうした
ものへの思いが強まったのは、いいこと。

8月は毎年、戦争についての多くのテレビ番組が放映される。
戦争を直接知らない世代の自分としては、知らないことも多く、
できるだけ見るようにはしているけれど、時間的に難しいので、
録画どりしている。

確認してみたら、その数は、数十にもなった。
それだけの番組を制作した人たちのエネルギーを、想った。

*なぜ圧倒的多数の憲法学者が集団的自衛権を違憲と考える
のか。「集団的自衛権行使容認違憲説は、ほとんどの憲法学者
が一致して支持する学界通説である。」という記事、参考になります。
私自身、安保法案賛成の意見に対してつっこみたくなる点だと
思っていたことが、整理されて書かれていました。