≪ コロナが終わった後の世界≫ ピンダの吉田さんからのお便りです。 | 私たちの50年!!

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1962年5月にサントス港に着いたあるぜんちな丸第12次航の同船者仲間681人の移住先国への定着の過程を書き残すのが目的です。

≪ コロナが終わった後の世界≫ ピンダの吉田さんからのお便りです。

 

マツエさん

コロナビールス下でいろいろな制約があり思うようにうごけませんね。でも中国のワクチンは1月に接種されるそうですから自由に動ける日も近いと思います。私は毎日歩いたり器械体操をしたり足が弱らないようにしています。毎日歩く道にはカンポス ド ジヨルドン鉄道があったりセントラル線があったりします。果物もたくさんなつています。

コロナビールスの後はぜひエビの養殖を始めて下さい。エビが好きなので食べに行きます。

吉田

 

松栄: みなさん 今日、仕事と本家仕事が終わっての帰宅が午後7時前でした。

水曜木曜は昼だけの営業なので、仕事を朝10時頃から、2時に私だけ上げさせてもらって、本宅に行き、農業の真似事と昼寝をしています。

体が(しんどくて)付いてこないので、1時間くらい休まないと何もできないわけで、誰もいない閑散とした家で、畑仕事、と言っても60m₂の位の広さの庭仕事をやってます。

金曜土曜日は、午後も夕方5時から8時まで営業するので後片付けしていると9時半から、場合によっては10時頃まで店で何かしています。昼も仕事で、同じく2時から4時半ころまで本宅で,、犬に餌やったり、仏さんを拝んだりしています。

これが、6月から店を開けて、今日11月26日までの毎日のスタンスでした。多分明日からも。

日曜は、前日の仕事が厳しいせいか。昼頃まで寝ています。

そしてゴソゴソ起きて、みんなでマーケットに息抜きに出かけるか、また寝てしまうか・・・です。

月曜は何もしないか、先々週は500km(往復)運転して農場に行ってきましたので、日曜に出て、月曜日の晩に帰ってきました。

1950年生まれなので、ちょうどこの8月3日が70歳の記念する誕生日でしたが、このようなコロナ閉鎖の年になる、とは思っても見ませんでした。

恐らくあと一か月もしたらワクチンが届いて、3か月もしたら。あのコロナ騒ぎは何だったのか、という時代がくるだろうと期待しています。

苦し事というのは、けっこう簡単に忘れそうなので、その時を予測して今の記録を、しっかり残しておきたい、と思っています。

幸いにも、麻生さんのお陰で、麻生さんが亡くなられた昨年10月4日だったからのコロナの様子を毎日、ブラジルニュース に残していますので、全部を纏めてみたいなー、と思っています。

多分自分には貴重な記録になるのではないか、と思っています。

しかし、このコロナ騒ぎが終わったとしても、かなり世の中が変わっているだろう、と思います。

今を大事に暮らしてゆきたいと思いますが、毎日がアッという間に過ぎてしまって、もう1年が過ぎてしまった、これからも1年があっという間でその来年の今頃、何を考えているのかを、楽しみに、これを書いています。

それにしても、痛くも痒くもないのですが、気持ちの、落ち方の厳しい年になったなー、と思って、今書いています。

今日、帰宅して、そんなことを書いて置きたいなー 、と思っていました。

相変わらずの、とりとめのない文章になりました。

 

吉田: マツエさん 私の手違いでマツエさんえ返信してしまい、お手数をかけ申し訳ありません。写真が容量オーバーとのことですが、もう一度watasitatino50nenの方に送ってみます。

私は毎朝この器械運動場まで歩き各種の運動を100回します。マツエさんは200回できるのですね。すばらしいです。この近くにカンポス・ド・ジョルドン鉄道の始点があります。10年位前、観光列車が山を降りるときブレーキが利かなくなり、谷底に転落し運転士が死んだので、それ以降旅客用の列車は山裾のピラクアマ(20KM)までしか行きません。日曜日の観光列車は復活しましたが、今はパンデミアのため運行されていません。この鉄道は1914年に創業され今年で106年になります。狭軌鉄道で建設には大勢の日本人が働いたといいます。建設が終わった後は幾人かの日本人は沿線の駅にとどまり、農家をやったと聞きました。1990年ごろその子孫たちがお祖父さんの本籍を調べて欲しいと言って、お祖父さんの持ち物を全部持ってきたこともありました。そんな山の中に日系人が住んでいたなどとは知らなかったのおどろきました。それからセントラル線も近くを通っています。1985年までは毎晩リオ行きの寝台列車が走っていました。私のいつかそれに乗ってリオに行きたいと思っていましたが、突然客車が廃止になり貨物だけになりました。単線では旅客輸送は無理だったのでしょう。新幹線の話はジウマ大統領の時に競売がありましたが、誰も応募しなかったようです。そのプロジェクトではピンダモニャンガーバに駅は無く、サン・ジョゼ・ドス・カンポスの次の駅はアパレシーダでした。