「赤羽末吉展」鑑賞後に『スーホの白い馬』を読む。 | 絵本沼

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『月刊絵本』(すばる書房)掲載の田島征三先生による作家のアトリエ訪問の連載記事を一冊にまとめた『田島征三の絵本対談』(1977年/すばる書房)の中で、赤羽末吉先生が『スーホの白い馬』について下記のように触れている。

トーベ・ヤンソンが「子供のものはハッピー・エンドでなければいけないと」と言っていると出ていたが、僕は子供が感動するのは、(『スーホの白い馬』の)あの悲劇性だと思うんだ。決して世の中ってそんなポカポカしたもんじゃないしね。

続けてこうも語る。

『スーホの白い馬』をみて王様をたたいて破っちゃった子供もいるらしいけど。(中略)それはすごく健康的な事だと思うんだよ。世の中には、あってはならない事はいっぱいあるんだから。

『スーホの白い馬』の根底にあるのは赤羽先生のこの考えだ。

 

世の中にはあってはならない事はいっぱいあるんだから、と。

2021年6月、銀座教文館ウェンライトホールにて「赤羽末吉展」を鑑賞した際、最初に思い浮かんだのはこのことだった。

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『スーホの白い馬』の初出は『こどものとも』1961年10月号(通巻67号)で、タイトルは『スーホのしろいうま』として刊行された。

この時赤羽は51歳。


その後、現行の『スーホの白い馬』は1967年に、構成は18頁から48頁へと倍以上に増加して判型も巨大化するなど、初出とはまったく違く作品に仕上げた上での刊行となった。
この辺のくだりは鳥越先生の『絵本の歴史をつくった20人』(1993年/創元社)に詳しい。

この『スーホの白い馬』(大塚勇三/1967/福音館書店)はどのようにつくられたのか?
 

その礎となる、1943年、赤羽34歳の時の中国・内蒙古の旅の見聞とスケッチと写真が、上記「赤羽末吉展」に展示されていた。
印象的だったのは、スケッチには大地と空がパキっと描かれていたことと、写真が切り取った現地の人々の表情が皆おおらかで明るいことだった。
時は太平洋戦争の真っただ中だ。

赤羽はこの内蒙古旅行の9年前の1932年(赤羽22歳)から、15年間中国に滞在している。
赤羽は後年こう語る。

あの日中戦争に対して、中国の人に私なりに謝罪したかった。私は満州に15年いた。圧迫する立場にいた私は、意識するとしないとに関わらず、中国人に対して立場上罪を犯していると思う。

その戦争責任への重き自覚に、私は背筋が伸びる思いだった。

また、原画、というかピエゾグラフで『スーホ』を眺める際に注目していたのは、やはりあの中盤の暗転シーンで、白地に黒い筆で描かれた該当箇所はよく見ると細かくホワイト修正が為されていた。
思わず「ほー」と声が漏れる。

そこに描かれているスーホは、身体はボロボロになりながらも眼光は異様に鋭かった。

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これら一連の付帯情報を踏まえ、帰宅して『スーホ』の頁ををあらためてめくってみた。

構成は扉+23場面、横書き左開き、場面はすべて見開き、手に取ってみるとやはり判型がでかくて頁数多くて重い。
判型がでかいと見開きもひろく、両端の距離が長いので草原のかなたにある地平線に説得力があり、遠景はめっさ遠く感じるし、夜はまっくらだし、殿様の転げ落ちっぷりもダイナミックだ。

でかい大地の物語を描くには、絵本も物理的にでかい方がいい。
それを説得力をもってわからせてくれる。

表現面では、虹ではじまり虹で終わり、引きと寄りのメリハリがあり、いきなり暗転入ったり、配色と構図の組み合わせの妙など、令和に読んでもクールな仕上がりになっている。

そしてなにより、そういうつくりや表現的な面よりも、日中戦争の最中を中国で過ごし、中国から命からがら帰国した直後に子供を3人も亡くした、赤羽末吉というひとりの日本人が放つ冒頭のあの言葉がズシっと乗っかかってくるのだった。

世の中には、あってはならない事はいっぱいあるんだから


そこには、作家が人生で一冊だけ描くことができる作品の凄みがあった。

 

 

原画展に行くまで、そのことを理解していなかった自分に反省。