[明治航空基地]燃弾庫など

 愛知県安城市東端町鴻ノ巣72-2(特別養護老人ホームひがしばた)、他

 

昭和18年(1943年)4月、着工

昭和19年5月20日、345空航空基地の使用を開始

昭和19年12月末、ほぼ完成

 

滑走路は6本

(800mx30m、700mx30m、600mx30m、300mx30mは2本)

6本の滑走路はコンクリートまたは三和土(敲き土)で建設され、離陸滑走開始地点は北・東・南の3地点。滑走路を挟んで北地区と南地区に施設を分けて配備した。明治航空基地がほぼ完成したのは昭和19年12月末日。

北地区(和泉):本部、夜戦隊、艦爆隊、陸偵隊

南地区(東端):艦戦隊、局戦隊、艦攻隊

 

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①燃弾庫

各滑走路の起点付近に配置されていたようだ。

「特別養護老人ホームひがしばた」の敷地にあり、見学許可を快く出していただけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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①燃弾庫

八幡神社近くの畑のなかにある遺構、上記の燃弾庫と同じ構造。

こちらは盛り土が取り除かれているので全体像がよくわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

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①燃弾庫

半場川近くの民家にある遺構、上記の燃弾庫と同じ構造と思われる。

道路沿い、石垣に組み込まれている。

★お世話になりっぱなしのKanレポート様、盡忠報國様のブログで辿り着けました!

 

 

⑤油蒸留所(基礎)

詳細不明

 

 

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慰霊碑

八幡神社の敷地内に建つ。

 

 

「明治航空基地之碑」

太平洋戦争たけなわの1943年4月、横須賀海軍施設部の監理の下、当時の愛知県碧海郡明治村大字東端、根崎、和泉の三集落に挟まれた約200ヘクタールの農地に、海軍の軍用飛行場の建設が始められた。そして、翌年5月下旬から終戦(1945年8月15日) に至るまで、建設工事と並行して海軍航空隊が航空基地として使用した。

 

その間、配備航空隊は、訓練部隊として、練習航空隊の教育を終えた搭乗員に対し、当時の各種新鋭機(「零戦」「紫電」「月光」「彗星」「天山」「彩雲」等)の使用に慣熟させる為の練成訓練を行うと共に、1944年12月から翌年4月にかけては、作戦部隊として、主に名古屋地区に来襲した米陸軍長距離戦略爆撃機B-29の迎撃や、米軍沖縄攻略部隊の撃滅作戦(沖縄特攻作戦)に参加した。

 

また、1945年1月13日早朝、この地を襲った三河地震東端の被害、住宅全壊77、同半壊121、死者24、重傷5、軽傷36、等)の際は、近隣町村被災者の救出、救護並びに災害の復旧に当たった。

 

太平洋戦争終結50周年を記念し、改めて世界恒久の平和を祈念するとともに、その歴史的事実を後世に伝えるため、この碑を建てる。

 

1996年3月 

東端町内会 

 

明治航空基地配備航空隊名 

1944年5月~7月 第345海軍航空隊明治派遣隊 

同年7月~9月 第341海軍航空隊明治派遣隊 

同年9月~終戦 第210海軍航空隊 

1945年6月~終戦 東海海軍航空隊 

 

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明治航空基地

昭和18年(1943年)、横須賀海軍建築部が明治航空基地の建設着工。昭和19年5月20日に第345海軍航空隊明治派遣隊(練成部隊)が航空基地の使用を開始、局地戦闘機紫電が装備され練成教育を行う。

 

同年7月10日に海軍戦時編成改訂により345空は解隊。戦闘第402飛行隊が明治基地で編成され、第2航空艦隊直率の341空(館山)の明治派遣隊となるが、基地業務のみを担当する乙航空隊として開隊している。明治航空基地は関東海軍航空隊(木更津)の所管に移行された。341空は同年9月に南九州の宮崎基地に転進。

 

同年9月15日、第3航空艦隊(木更津)直率の210空が開隊。練成教育を主任務とする実用航空隊で、実戦用の新鋭機を使用して撃滅任務訓練を行った。

配備された主な航空機は下記の通り

艦戦隊:零戦・零式練習用戦闘機

局戦隊:紫電

夜戦隊:月光・彗星(12戌型・液冷)

艦爆隊:彗星(33型空冷)・99式艦爆

艦攻隊:天山・97式艦攻

陸偵隊:彩雲・彗星 (11型12型液冷)
練習機:白菊・90式機上作業練習機、93式中間練習機、など

出典:国土地理院 1947/12/26(昭22) USA R728-19

 

6本の滑走路はコンクリートまたは三和土(敲き土)で建設され、離陸滑走開始地点は北・東・南の3地点。滑走路を挟んで北地区と南地区に施設を分けて配備した。明治航空基地がほぼ完成したのは昭和19年12月末日。

北地区(和泉):本部、夜戦隊、艦爆隊、陸偵隊

南地区(東端):艦戦隊、局戦隊、艦攻隊

昭和20年12月13日以降、主に名古屋地区に侵入したB-29の邀撃任務になる。

昭和20年1月5日、紫電隊は徳島基地に移管。

昭和20年3月26日、菊水作戦参加のため、210空は出水航空基地などに進出。

昭和20年5月5日、210空は新編成の第53航空戦隊所属として再編成(邀撃戦に参加せず、零戦で練成教育を行う)

昭和20年5月16日、航空戦隊司令部が豊橋空から明治航空基地に異動。

昭和20年6月20日、東海海軍航空隊が開隊(乙航空隊)

昭和20年7月25〜30日、8月2〜5日の空襲で大被害。

 

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終戦時の残存兵器一覧(一部)

出典:アジア歴史センター「明治航空基地引渡目録」海軍省 Ref.C08011217300

 

 

参考資料

鈴木丹「明治基地と海軍航空隊」安城歴史研究第20号

伊藤厚史「学芸員と歩く愛知・名古屋の戦争遺跡」

 

 

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