髪を切ることが好き。 

切られるのも好きだけど、できれば自分で切るのが好き。

ハサミが髪の束を切る時は、歯ごたえが丁度良い食べ物を食べる時のような、それでいて一度切ったら元に戻すのにとても時間がかかるという絶妙な背徳感があり、それが好き。

後ろ髪を引かれるという言葉があるが、髪には人間の生きた過去がのこると思う。蝉の抜け殻のように。 

それを思うと、髪を切りサッパリとし、昔の自分に対するありがとうと決別の気持ちを感じる時、次にまた髪を切る時がとても楽しみになる。

そして、自分で切って一度満足してから、鏡を見て、美容院を予約し、美容師さんの仕事に尊敬を覚える。

この一連の流れを含め、髪を切ることが好き。

  「遅い」

が私の友人の間で、高校生の時、少しだけ流行ったことがあった。基本的にマイペースであり、集合時間になってから準備を始めるようなタイム感で生きていた私たちは、高校生なりの価値観で「遅い」ということは何においても損ではないか?という一つの答えに辿り着いたのだった。

例えば期末試験の時。頭の回転や、記憶の中から適切な答えを引き出す速度が早ければ早いほど、後に見直しをする時間を長くする事が出来る。
集合時間に遅れる事はマイナスな要因を生み出すが、早く来すぎる事で損をする事は何もない。

など、今考えればとても当たり前なことを、今更気付いたという風に、さも深みがあるかのように、100円ローソンの前で話したものだった。

かつての友人はもう居ない。

考えてみると、私たちは急かされることが好きだったのであろう。
余裕をもてば、日常に速度感は要らない。
ゆったりと、必要な時に必要な速度感で生きれる。それ以上に急ぐ事を選んでいたのは、甘え意外に近い答えはなく、
100円ローソンから初めてのバイト先の中華料理屋まで街乗りのピストバイクを全力で漕いでいたその時の私はそれ以上の答えは見つけられなかった。



7月から、実家に戻っている。 

誰も望まない、最悪の形で江戸川区に帰ることになった。
片方は大きく、もう片方は小さく連鎖して、自分以外の人間の軋轢の幅を思い切り広げてしまい、結果として2人の人間を遠ざけることになってしまった。

自分の価値は自分が一番良く分かってるつもりだが、どうしても信用ならなくなっている。
昔から薄々常に感じていたが、特に今は何処にも自分の居場所がないように感じる。

やっと全て終わった。

自分の力では何一つできず、した事といえば、傷付けた上でなお選んでくれた人を失望させた事くらい。
全て理解してたつもりで、知識や理屈では分かっていたけど、感情が子どもだったと思う。 

また、こうして文章におこすことで、理屈にしてしまっている。頭で考えている。 
がんじがらめなようで、切迫した振りをしている。
俺の人生だからって自分勝手に、自分を蔑ろにしている。

生きるのが難しい。
振りをして、余裕ぶってる。 

難しい。

音楽と踊りが今はとても楽しい。 

感謝を感じるけど、何かできるとは思えない。辛くはない。

多分、何かをしたい。