由兵衛

福井県敦賀市で豆腐工房を営んでいます。平成16年から豆乳宅配を、平成21年から全国に豆乳通販を始めています。


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2020年は日本書紀1300年の佳節です。今年(平成30年)3月8日御名易(みなかえ)祭に玉串奉奠させて頂きました。

<出典はパブー公開文書>

古事記(712年):神功皇后は新羅遠征の後、太子(応神天皇)を生み忍熊王と戦いこれを攻め亡ぼしました。その後、建内宿禰は太子を連れて、禊のために近江と若狭国を巡歴し、越前国の角鹿に仮宮を造り、そこに滞在しました。その夜、伊奢沙和気(いざさわけ)大神が宿禰の夢の中に現われ、「わが名を御子(太子)の名に易えてほしい」と告げました。宿禰は祝福してこれを受け入れたので、大神は、「明日の朝、浜にお出かけなさい。名を易えたしるしの贈物を差し上げましょう」と重ねて告げます。翌朝、太子が浜に出てみると、鼻に傷のついた入鹿魚(いるか)が、浦いっぱいに寄り集まっていました。太子は、「神が私に食料の魚を下さったのだ」とおっしゃいました。それで、伊奢沙和気大神はその御名を称えられて御食津(みけつ)大神と呼ばれるようになりました。この御食津大神は、今は「笥飯大神」といわれています。また、傷ついた入鹿魚の血が臭かったため、入鹿魚が寄り集まっていた浦を血浦というが、今は角鹿と呼んでいます。古事記では、御名易後の太子の名についてはわかっていません。
日本書紀(720年):神功皇后摂政13年の2月8日条
神功皇后が武内宿禰に太子の角鹿・笥飯大神参拝の随伴を命じた、とあります。また、応神天皇即位前紀の割注に次のような記事があります。応神天皇が皇太子であったとき、越国に行って角鹿の笥飯大神にお参りになったが、そのとき大神と太子とが名を相易(か)えた。大神は去来紗別(いざさわけ)神といい、太子を誉田別(ほむだわけ)尊と名付けたという。それだと大神の名は誉田別神、太子の元の名は去来紗別尊ということになる。「けれどもそういった事実はどこにも見られず、いまだつまびらかでない」と日本書紀は述べていいます。
[本居宣長]
古事記伝の中で、御名易(みなかえ)は太子の名を気比大神に差し上げるという意味であり、書紀の記述は誤っていると述べた。
[竹野長次]
古事記の御名易(みなかえ)説話について、太子が神の名を得る事、すなわち神の霊威を身につける事により、太子の霊威が高まったと考え、御名易(みなかえ)の意味を、気比大神の名を太子に差し上げて太子の名にする、と解した。そして、御名易(みなかえ)が角鹿で行なわれた理由は、敦賀地方の土地神が神名を奉った事で、敦賀地方の豪族が王朝へ帰順した事を表現しているものと考えた。
[吉井巖]
古事記の説話の中に御名易(みなかえ)の結果を示す記述がなく、最後は魚を賜る話になっている事について、説話中の「ナ」は魚と名のどちらにも読める事から、この話の原型は、太子が魚を賜った話であり、これが名を賜った話に利用されたためであるとした。太子が角鹿で御名易(みなかえ)をした理由については、継体天皇が応神天皇の子孫と称して越前から大和へ進出した事実から考えた。書紀によると、継体天皇の本拠地は、若狭、越前にあった。そこで同氏は、角鹿はその中心に位置しているため、角鹿地方の漁撈民の間で信仰されていた地方神の伝承が、継体天皇の始祖伝説に取り入れられたので、太子は角鹿で御名易(みなかえ)をしたのだと考えた。
[三品彰英]
御名易(みなかえ)に関して、太子の元の名は「ミケツ」あるいは「ケヒ」であり、気比大神「イザサワケ」であると考え、この両者の交換であると解した。また、三品氏は太子の御名易(みなかえ)の性格について、典型的な成人式の儀礼であり、神との交霊による新しい人格の成立及び新天皇の出現であると考えた。角鹿で御名易(みなかえ)が行われた理由として、イザサワケノ大神が、太子の母である神功皇后の祖先神である事から、祖先神との関係を指摘した。
[塚口義信]
民俗の事例から、御名易(みなかえ)は、成年式における改名儀礼の神話的表現であると見なした。角鹿で御名易(みなかえ)が行なわれた理由として、応神の母系である近江の豪族、息長氏との関係を指摘した。妻問婚の時代であれば、子は母方で養育され、成年式も母系の神社で行なわれたのは自然であろうと考えたのである。
[倉塚曄子]
御名易(みなかえ)の後の太子の名前は不明確であり、応神紀の割注の記述も、書紀の編者にすら意味がよく分からなかった事を示しているので、御名易(みなかえ)の持つ本来的な意味はよく分からない、と述べている。説話中での御名易(みなかえ)の位置付けについて、太子の再誕であると考えた。成年式において、御名易(みなかえ)は大人として再誕するために必要な儀礼的手続きであるので、仲哀記中の応神天皇の物語は、再生復活儀礼に枠どられた新たな王の誕生の物語であると述べている。角鹿で御名易(みなかえ)をした理由について、大陸交通の裏玄関に位置している角鹿を、大陸交通の表玄関・筑紫で誕生した新時代の初代王応神が、第二の誕生をとげた場所にするためであったと考えた。
[阪下圭八]
古事記本文を口誦面でとらえ、ナは「魚」のナと「名」のナのどちらにもとれる事から、夢の中の神のお告げは一つの謎かけであったと考え、「名易え」は、気比大神の魚と太子の名前との交換と見なした。また、角鹿での神託は、成年式の試練であり、後に続く母后の歓喜の歌は、一人立ちした太子を祝うものである事から、御名易(みなかえ)説話は応神の第二の誕生譚であったと考えた。角鹿での御名易(みなかえ)の理由に関して、角鹿は、宮廷の食料が献上される場所であり、同時に、大陸交通における重要な場所であったため、そこの守り神である気比大神を、海の彼方の金銀の国を神授された太子に結び付けるためであったと述べている。
[尾崎和光]
文中のタケノウチノスクネの言葉に注目し、太子の名を易えたのでなければ不自然であるとして、御名易(みなかえ)は、気比大神が太子に名を与えたという意味であると考えた。そして、この御名易(みなかえ)説話の部分は、独立した説話的性格を持ち、太子が土地の霊を身につけて支配者の資格を得る話であったと考えた。太子が角鹿で御名易(みなかえ)を行なった理由として、角鹿は神功・応神にとって古い縁のある重要な場所であり、その土地に関係の深い、古い伝承が伝えられていたからであろうと推察した。
[田村克巳]
三品氏の説を受け、御名易(みなかえ)は太子にとっての成人式であると解した。角鹿で御名易(みなかえ)を行なった理由は、神功・応神説話の構造から推定して、角鹿は王朝にとって新たな王の出現する場所であったからだと考えた。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

敦賀の子供達に伝える活動をはじめました。吉田

 

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