みなかえの歴史的意義 | 由兵衛

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『古事記』と『日本書紀』の「名易え」説話

 

『古事記』の記述によると、神功皇后は新羅遠征の後、筑紫にて太子(後の応神天皇)を生み、倭に帰る途中、反逆した忍熊王と戦い、これを攻め亡ぼしました。その後、大臣の建内宿禰は太子を連れて、禊のために近江と若狭国を巡歴し、越前国の角鹿に仮宮を造り、そこに滞在しました。その夜、伊奢沙和気(いざさわけ)大神が宿禰の夢の中に現われ、

「わが名を御子(太子)の名に易えてほしい」と告げました。宿禰は祝福してこれを受け入れたので、大神は、「明日の朝、浜にお出かけなさい。名を易えたしるしの贈物を差し上げましょう」と重ねて告げます。翌朝、太子が浜に出てみると、鼻に傷のついた入鹿魚(いるか)が、浦いっぱいに寄り集まっていました。太子は、「神が私に食料の魚を下さったのだ」とおっしゃいました。それで、伊奢沙和気大神はその御名を称えられて御食津(みけつ)大神と呼ばれるようになりました。この御食津大神は、今は「笥飯大神」といわれています。また、傷ついた入鹿魚の血が臭かったため、入鹿魚が寄り集まっていた浦を血浦というが、今は角鹿と呼んでいます。

『古事記』の記述では、「名易え」後の太子の名についてはわかっていません。

 

『日本書紀』は、神功皇后摂政13年の2月8日条にあります。

そこでは神功皇后が武内宿禰に太子の角鹿・笥飯大神参拝の随伴を命じた、とあります。

『書紀』の応神天皇即位前紀の割注に次のような記事があります。

応神天皇が皇太子であったとき、越国に行って角鹿の笥飯大神にお参りになったが、

そのとき大神と太子とが名を相易えた。それによって、大神は去来紗別(いざさわけ)神といい、太子を誉田別(ほむだわけ)尊と名付けたという。それだと大神の名は誉田別神、太子の元の名は去来紗別尊ということになる。しかし、この事に関して『書紀』では、「けれどもそういった事実はどこにも見られず、いまだつまびらかでない」と述べていいます。

この事は「名易え」説話を難解にしている原因の一つになっています。

両者を比較してみると、『古事記』における太子の角鹿滞在は、忍熊王との戦いで付いた汚れを禊で落とすため近江、若狭を巡歴した時の話となっています。

一方『書紀』には角鹿への旅が禊であるという記述はありません。

『書紀』における角鹿参拝は、神功皇后の新羅遠征の成功と太子の皇位継承の決定を氣比の大神に報告する事が目的であったと考えられます。

 

『古事記』と『日本書紀』を比較してみると、「名易え」説話を最も難解にしている要因は、「名易え」後の太子(応神天皇)の名が不明である点です。ホムダワケという太子の名が「名易え」後イザサワケに変っていれば明確ですが、そうなっていない所に「名易え」説話の難解性があります。

 

 

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