のっけから、ゆる~い猫ブログとは思えぬタイトルでございます。

このタイトルを見て、ピンときた方は新選組ファンに違いない(笑)

 

そう。

今日11月18日、153年前に伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が暗殺されたのでした。

 

その現場が、この油小路。

(何年か前の写真なので、雰囲気だけ感じてくださいませ)

 

 

 

今では普通の通りですが、昔は油屋が軒を並べていたらしいです。

 

そんな住宅街の中にある本光寺の前が、事件の現場でした。

 

 

 

 

事件の概要を伝える説明板と、『伊東甲子太郎外数名殉難跡』 という石碑がひっそりと建っています。

 

 

 

 

伊東甲子太郎は常陸(茨城県)の出身で、学問もでき、剣は北辰一刀流の名手であった。

元治元年(1864)に門弟ら七人を率いて新撰組に入隊し、参謀として重視された。

しかし、尊王派であった伊東は、次第に隊長 近藤勇と相反するようになり、慶応三年(1867)三月に同志十五人と共に新撰組を脱退して御陵衛士となり、高台寺月真院を屯所とした。

その後、薩摩藩の援助を受け、盛んに討幕を説いた。

しかし、新撰組との対立は深く、同年十一月近藤勇らは伊藤を招いて酒をふるまい 酔った伊藤をその帰路、この地で刺殺した。

この知らせを聞いた伊東一派は直ちに駆け付けたが、待ち伏せしていた新撰組数十名の隊士に襲われ、三名が斬られた。

世にこれを油小路七条の変という。

 

 

案内板の表記です。

 

油小路七条の変のわずか1月前の10月14日には大政奉還により江戸幕府は消滅し、3日前の11月15日には同じ京都で坂本龍馬が暗殺されています。

伊東甲子太郎の暗殺がもはや意味を持たないのは、新選組にも痛いほど解っていたでしょう。

けれども、伊東を殺すことで『最後まで自分たちの正義を貫くのだ』という矜持を保とうとしたのは、押し寄せる時代の波を感じて焦っていたからかも知れません。

そして、鉄の掟の局中法度に違反した隊士を断罪してきた新選組の歴史において、伊東甲子太郎一派が最後の粛清となりました。

油小路の変の翌年、幕府軍は鳥羽伏見の戦いに敗れ、新選組も京都を追われます。

4月には近藤勇が板橋形場にて処刑され、新選組の活躍はわずか5年で幕を下ろしました。

 

新選組は、幕末が生んだ徒(あだ)花とも云われます。

徒花とは、実を結ばない花のこと。

 

けれども。

新選組の隊士達も、袂を分かった伊東一派も、粛清された隊士も、新選組のみならず時代に消えていった名も残らぬ無数の人たちも、信念のもとに生きた人たちの咲かせた花は、たとえ実を結ばなかったとしても歴史を一瞬でも彩り輝かせました。

それはきっと、とても美しい花だったに違いありません。

 

 

風をだに待つ程もなき徒花は枝にかかれる春の淡雪  夫木和歌集