*お断り 歴史や小説・時流などのブログでは、人物名が一部、敬称略になっております。
失礼お許し下さいませ。
今年の大河ドラマ 『江~姫たちの戦国~』 が終わって1週間。
わーい、今日から4回連続で 『坂の上の雲』 の完結編だぁ・・・
で、その前に。
ちょーっっとだけ、物申したい次第です。
11ヶ月の間、 『江』 を見ていて思ったこと。
ご都合主義すぎて、歴史の表も裏も、良いことも悪いことも描かれなかったなぁ・・・と。
平和主義者であるはずの信長の命令で、串刺しにされて殺された江たちの異母兄・万福丸のこととか。
三代将軍家光となった竹千代が、世継ぎの確執騒動の遺恨として、弟・国松(忠長)を蟄居に追いやり、それでも飽きたらずに江と秀忠亡き後は自害にまで追い込んだ顛末とか。
そんな、主人公にとってマイナスになる出来事は一切、描かれなかったのはともかくとして。
最後まで、京極竜子の扱いがひどかったなぁ・・・と。
いや、スミマセン。
らいらい、秀吉関係の女人では1番、彼女が好きなもので・・・
と、いうワケで。
かなり強引ではありますが、今日は京極竜子・ヨイショを、いたしたいと思います。
かえすがえすも、新しい着物と恋愛にしか興味のないドラマの竜子は・・・
完全に捏造ですから
まずは、京極竜子のプロフィ-ルから。
父は鎌倉時代から続く名門・京極家の京極高吉。
母は、浅井永久の娘で浅井長政の姉・京極マリア。
(よって、竜子と浅井三姉妹は従姉妹にあたります)
超名門の一人娘として生まれ育った竜子は、いわば宝生麗子なみの生粋のお嬢様
若狭の守護・武田元明と結婚した竜子は、二男一女に恵まれ幸せに暮らしていました。
が
本能寺の変で、彼女の人生は一変
明智光秀側についた夫・武田元明は豊臣秀吉に討たれ、竜子もまた捕らわれの身に・・・
しかし、その類い希なる美貌を見初められ、竜子は秀吉の側室となります。
秀吉の女好きは周知のところですが・・・
主な側室は、 20人余。
お手つきの女性は常時、200 ~ 300人を下らなかったと言われています。
て言うか、秀吉自身も数が多すぎて分からなかったらしい
なんと竜子は、その熾烈な側室戦争の中で常に1位をキープ
淀殿が嫡子を産んでからは次席となったものの、秀吉が亡くなるまでの 20年近く、その寵愛は変わることがありませんでした。
ちなみに、竜子の弟の京極高次(兄という説もアリ)は、『竜子のお尻の七光りで取り立ててもらった』 と揶揄され、ホタル大名と蔭で呼ばれていたとか・・・
(下品でスミマセン)
あ、でも高次の出世は竜子の引きだけでなく、妻の初(浅井三姉妹の二女ですね)の七光りもあるのよ・・・
全然、フォローになってませんね・・・ 高次さん、ゴメン
有名なのが醍醐の花見の杯争い。
京都の醍醐寺にて、女性ばかり 1300人を引き連れて秀吉が開いた一大イベント。
酒宴の席で秀吉がまずは正妻のおねに杯を渡し、さて次の杯を・・・
というところで、淀殿と竜子との間で「ワタシが先」という杯争いが始まったそうで
前田利家の賢妻・松が間に入り、「では客人である私が先に頂きましょう」と、その場を収めたというエピソードです。
ホントのところは、竜子と淀殿の関係はしごく良好でした。
賤ヶ岳の戦いの後、秀吉に引き取られた浅井三姉妹を養育したのは竜子であったようですし。
『女性ばっかり集めて鼻の下が伸びきった秀吉が、あんまりノリノリで浮かれきって舞い上がって いやがる から、いっちょお灸をすえてやるか』
くらいの意地悪・共同戦線だったというのが真相だとか
その竜子さん。
秀吉の死後、出家。
弟()京極高次の住む大津城の元へ行きます。
しかし、京から折々に贈り物をしたり、秀頼に会いに大阪城を訪ねたり・・・
北政所(おね)や淀殿との交流は変わらず続いていました。
ところで。
秀頼と側室・伊茶との間に産まれた国松は、徳川から嫁いだ正妻・千姫の手前もあり、生後すぐに京極家に預けられました。
後に、乳母の兄である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となるまでは、初と竜子が中心となって国松を育てていたようです。
国松は、己が豊臣の一族と知らず、両親の顔も知らずに育てられていました。
けれども、1614年の大阪冬の陣を前に京極家では国松の扱いに対して喧々囂々の論議が巻き起こります。
『国松をかくまっていたことを徳川に知られぬ内に処刑してしまおう』
その意見に正面から反対したのが、初でした。
さらに初は、大胆な行動にでます。
徳川と豊臣の橋渡しとして、自分が大阪城に入るその時。
初は国松を、 『京極殿御道具』 と札を立てた長持(ながもち)の中に隠し入れ、大阪城に連れて入るのです。
やるな、初
親子の対面を果たした秀頼と国松は、徳川との和議が整ったこともあり、そのまま大坂城で共に暮らすことになりました。
しかし、翌年の5月8日。
大坂夏の陣の直前、国松は父・秀頼と最後の盃を交わし、乳母と京極家家臣・侍田中六郎左衛門と共に城を逃げ落ちるのです。
わずか半年余の短い親子の生活でした。
5月21日。
徳川の徹底的な探索により、国松は伏見にて捕縛され、23日に六条河原で斬首されました。
わずか8歳の生涯でした。
共に城を脱出した田中六郎左衛門は、京極家の者でもあり死罪を免れました。
しかし、六郎左衛門は幼い国松を1人で逝かせるのは忍びなかったのでしょう。
自ら国松と運命を共にすることを望み、国松と同時に処刑されたといいます。
国松の遺骸を引き取ったのは、京極竜子。
竜子はまた、大坂夏の陣で大阪城より脱出してきた侍女たちの保護もしています。
竜子は国松の遺体を、京極家ゆかりの京都・誓願寺に埋葬。
この時、竜子は国松の隣に、自分の生前墓を建てたようです。
国松の墓だけだと謀反人の息子として無縁仏になるかも知れない。
自分と一緒ならば、京極家の者によって共に供養してもらえるだろう・・・と、考えたのでしょう。
竜子は死後、望み通り国松の隣の墓に葬られました。
現在、竜子の墓と国松の墓は、京極氏関係者の手によって、秀吉が眠る大阪・豊国廟へ移されています。
伝承によると・・・国松と竜子の墓と並んで、淀殿の墓も建てられていたとか。
竜子の思いのこもった淀殿の墓が、長き徳川の世の間にいつのまにか無くなってしまっていることが残念でなりません。
今年の大河のサブタイトルは 『姫たちの戦国』 で、ありました。
茶目っ気あふれる聡明な竜子や浅井三姉妹の中で1番情が深かったという初。
ならば、どうしてこんなにも女気にあふれた彼女たちの生き生きとした姿をきちんと描いてくれなかったのか。
とても悔しいです。
と、まぁ言いたいことを言って、今年の大河の話は終わろうと思います。
お気を悪くなさった江ファンのアナタに、謝罪の意をこめて、とっておきの情報をお教えするので・・・
怒らないでね~~~
実は・・・昭和天皇の母御であらせます貞明皇后は、江の2番目の夫である豊臣秀勝(ドラマではAKIRA氏が演じてました)と江との間に産まれ、公家の九条忠栄に嫁いだ完子の子孫であります。
いわば、現・平成の明仁天皇は江の血をひいているんですね・・・
恐るべし、江のDNA
え
これくらいのフォローじゃ、ダメですか・・・
ではでは。
『江』 の竜子さんの最強セリフのパクリで、〆くくらせて頂きましょう
『そうよ。こんなブログなんて、最初から無かったと思えばいいのよ』
ばいちゃ