阪神大震災から昨日で16年。
震災で亡くなった方々のご冥福を心からお祈り致します。
あの日、愛媛もひどく揺れました。
寝ていた布団の中で、初めて体験する激しい揺れに身体を強ばらせて地震の過ぎるのを待った不安な気持ちは今も忘れられません。
それでも、本当に恐ろしかったのは、それからでした。
TVに映し出される惨状、発表の度に数十人数百人と増えてゆく死傷者の数・・・その日は一日中、知り合いの顔を思い浮かべながら祈る思いでTVの前に座っていました。
被害の大きかった長田区には、らいらいの親友の実家がありました。
学生時代、よく泊まりに行ってご両親にもお世話になったお家です。
数日して電話が大分通じるようになった頃、やっと連絡が取れました。
周りが全壊・全焼した中で、奇跡的に一軒だけ残ったそうです。
その代わり、近所で亡くなった方々の遺体安置所となっていると聞いて心が痛みました。
そして、もう一人。
長田区と並ぶ被災地・灘区に、お友達の咲ちゃんは住んでいました。
どうしても咲ちゃんに電話が繋がらなくて、新聞の伝言板に載せてもらってやっと連絡が取れた時は、震災から10日が経っていました。
幸い咲ちゃんは無事だったけれど、咲ちゃんの家は全壊してしまっていました。
2階から飛び降りたお母さんは入院中、一緒に暮らしていたお婆ちゃんは施設に引き取られたそうです。
お父さんは公園でテント暮らし、咲ちゃんと妹さんは知り合いの家に住まわせて貰っていました。
咲ちゃんの家族がそろって暮らせるようになったのは、その1ヶ月後。
家族4人で4畳半のアパート、お婆ちゃんはそのまま施設に残りました。
家財一式を失って不自由な生活を送っている咲ちゃんに、私はちょっとでも力になりたかった。
私は実家にも協力を頼んで、家にある贈答品や使っていない道具の一覧表を作りました。
『要る物だけ送るね』と書いて、チェック欄も作りました。
品物は送ったけれど、お金でお見舞いはしませんでした。
その後、咲ちゃんの自宅の再建は叶いませんでした。
咲ちゃんの勤めていた灘の酒造会社は自主廃業になり、震災から数年後、まだ若かった咲ちゃんのお父さんは心労で亡くなられ、後を追うようにおばあちゃんも逝去されました。
震災は咲ちゃんから沢山のものを奪い・・・それでも一生懸命、明るく前向きに進もうとする咲ちゃんを、私はますます好きになりました。
震災の年の終わり。
『震災の時に良くして頂いた御礼です。一つはご実家に差し上げて下さい』
そんなメッセージと共に、我が家に咲ちゃんのお歳暮が2つ届きました。
「大したことはしていないんだから、うちの実家にまでしなくて良かったのに」
そう言って私は、有り難くお歳暮を受け取りました。
けれども、その次の年もその後も、お歳暮は毎年2つ送られ続けてきました。
(どう言えばいいんだろう?)
言葉に困っている間に、10年が経ちました。
咲ちゃんは良い方と巡り会って幸せな結婚をし、2人の可愛い子供に恵まれた優しいお母さんになりました。
10年目の暮れ。
私は念願のルミナリエに行きました。
会場に流れるレクイエム、途切れなく人々が鳴らし続ける鎮魂の鐘・・・ルミナリエは単なる冬の風物詩イベントではなく、震災で亡くなった方々を悼む聖地でした。
冬空に立つルミナリエは、幻想的で荘厳で静謐で、まばゆいまでに美しくて。
震災で神戸が壊滅的な被害を受けたその冬に、これだけのイベントを開催するのは大変な難事業だったはずです。
けれども、それだけの苦難を乗り越えて、どんな代償を払ってでも、ルミナリエを開かずにはいられなかった程に、失った者達への鎮魂の思いは強かったのでしょう。
被災者の方々は、絶望からはい上がる救いを、闇に塗りつぶされてしまった心に刺す光を求めていたのでしょう。
ルミナリエの光は、強くて温かくて心に染み入ります。
被災者の方々は、この光に心を癒され励まされて生きてきたのでしょう。
ルミナリエは、愛しい死者に出逢える場所。
この無数の電工の光の一つとなって、愛しい人が戻ってくる場所です。
鎮魂の象徴のきらめきを見ているうち、無性に咲ちゃんの声が聞きたくなりました。
震災の時、すごくすごく心配したこと。
咲ちゃんが無事でいてくれるように、必死で祈ったこと。
咲ちゃんのためなら、どんな事をしても惜しくなかったこと。
その気持ちを素直に咲ちゃんに伝えれば良いのだと、光が導いてくれた気がしました。
ルミナリエに行った次の日、私は咲ちゃんに電話をかけました。
やっぱり、その冬も咲ちゃんからのお歳暮がやっぱり2つ送られてきていました。
お歳暮の御礼を言ってから、私はルミナリエに行った事や感じた事や考えていた言葉をつかえつかえに話しました。
「10年間、ずっとありがとう。でももう、十分貰ったから。10年すぎたもの、震災の時のことは今年で終わりにしよう。いつまでも2つ貰っていたら、咲ちゃんがいつまでも震災を引きずっているみたいで嫌だから」
これだけのことを言うのに10年かかってしまった自分は、本当に不器用な人間です。
次の年から、送られてくるお歳暮は1つになりました。
阪神大震災は、被災した人にも被災しなかった人にも多大な影響を与えました。
震災に関わった全ての人たちにとって、それはどんな16年だったのでしょう?
16年という刻は長かったでしょうか、短かったでしょうか。
16年の歳月が、傷ついた人たちに何よりの特効薬になっていればいい。
どの人たちにとっても、16年という時間が優しい癒しであってくれたなら。
そう願わずにはいられません。