(334)江戸時代の認知症 | 江戸老人のブログ

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(334)江戸時代の認知症

  

 歳をとっても元気な方もいるし、早くから病に倒れ、痴呆症が発祥する人もいて、こういうのは個人差が大きい。親が歳を取って来ると、いつも気になってくる。そして現実となると、家族はどうしたらいいかとうろたえてしまう。「うろたえる」といえば、狼狽する、慌てふためく、戸惑うという意味で使われている。
 『日本語大辞典』によると、うろたえるには、うろつく、うろうろと歩く、という意味もある。 
 

 最近はそれほど聞かれなくなったが、老人の徘徊問題がある。家の中を徘徊するのではなく、家から外に出て歩き回り、何処へいったか分からなくなってしまったなどという話がよくあった。先日、施設に保護されたはいいが、名前その他の個人特定情報がないため、十年近く収容されて、やっと特定されたなどの事件が報道された。
 自治体によっては、緊急連絡用のスピーカーにより捜索依頼の放送を流すところがある。何時ごろ、どの辺りに出かけたが家に戻らないとか、どのような服を着ていたかとか、身体的特徴などを参考のために流し、人々に情報や発見を要請する。痴呆症、いわゆるボケ症状のため、家を出たはいいが戻る道筋が分からなくなったのだろう。張り紙に書いて張ってあるのを見たことがあるという。

 

 徘徊とは、うろうろする、うろうろ歩くなどの意味だから、うろたえると同じような意味になる。江戸時代の京都の町触(まちぶれ)を見ていると、「うろたえる」という言葉をよく見かける。
 
享和元年(1801)八月二十七日に出された町触を紹介してみよう。(『京都町触集成』)

 粟田(あわだ)領、東町の美濃屋次郎吉(みのや・じろきち)方に同居している父親で、清蔵という今年五十七になる者が、今月十二日の昼ごろにひょいと出かけたまま家に戻ってこない、清蔵は近ごろ「老耄(ろうもう)」したそうである。木綿の浅黄霜降りの単物(ひとえもの)に、木綿の花色と浅黄を継ぎ合わせた襦袢を着て、茶色の木綿の帯をして出かけたそうである。捜してほしいと次郎吉が願い出てきた。そのような者が「うろたえ」ていたら、東町奉行所へ訴え出るように、


住所、名前、年齢、行方が分からなくなった日にち、最近の様子、そして着衣の特徴など、手掛かりになりそうな情報が公開されている。清蔵さんは、五十七歳になり、最近めっきり「老耄」、つまり老いぼれて耄碌(もうろく)したという。五十七歳で「老耄」だ、耄碌だ、などといわれると、ドキッとさせられるが、江戸時代ならそれもあるかなと思う。
 十二日にふっと家を出たまま戻ってこないという。町触が出たのが二十七日だから、行方不明になってからもう十五日もたっている。


 家族が町奉行所に捜索願を出すにしても、ずいぶんとのんびりしているものである。清蔵さんには、過去にもそういうことがあったのかも知れない。倅の次郎吉もさすがに心配になったのか、捜索願を提出したのであろう。倅の願いを受けた京都町奉行所は、このような町触を流して、清蔵さんらしい人がどこかで「うろたえ」ているのを見つけたら、町奉行所に連絡しなさい、と命じている。

 清蔵さんは、「老耄」というのであるから、古いいい方なら耄碌(もうろく)であり、今風にいうと痴呆とかボケといわれる状態になったと思われる。息子と一緒に住んでいる家を出て、その辺りを歩こうとしたのかもしれない。


 しかし、家に帰る道がとんとわからなくなってしまい、うろうろしているうちに何処を歩いているのかも分からなくなり、ただただうろついて歩いているのだろうか。「うろたえ」という言葉からは、徘徊しているというより、自分がいるところが、何処が何処だか、そのうち何がなんだかわからなくなり、ただただ狼狽してうろうろ歩いているという老人の姿を思い浮かべることができる。

 

 このすぐ一ヵ月後の九月二十五日にも、祇園新地末吉町(すえよしちょう:東山区)の近江屋弥三郎の祖父次兵衛さん六十七歳が、二十一日にやはりふと家を出たまま戻らないという訴えが出され、やはり町奉行所から「うろたえ」ているのを見つけたら連絡するようにという町触が出ている。次兵衛さんも、最近「老耄」したと書かれているので、先の清蔵さんと同じような事情だろう。享和三年(1803)閏(うるう)正月には、七十二歳の平兵衛さんの捜索願が出されているが、平兵衛さんも近年「老耄」したという。

 

 家をふと出て、行方が分からなくなった日から、家族が捜索願を出した日数を数えてみると清蔵さんが十五日、次兵衛さんが四日、平兵衛さんが六日である。現代から考えると、少し二日が経ちすぎている。よほど捜したが、なお見つからなかったということであろうか。ということは、行方が分からなくなり、二、三日「うろたえ」ていたところを見つけられた老人はもっと多かったということになるだろう。江戸時代でも都会には、痴呆、ボケにより家へ帰る道がわからなくなり、「うろたえ」ている老人がかなりいたらしい。

 

 うろたえていたのは「老耄」した老人だけではなかった。寛政十一年(1799)の一年間に京都では、家族から捜索願が出て触れ流された町触の数が九件とかなり多かった。近江屋六兵衛下人の利兵衛さん十八歳、山科郷の百姓善兵衛さん三十五歳、鱗形屋(うろこがたや)伊兵衛下人の徳次郎さん十九歳、綿屋市兵衛下人の利八さん十二歳、糀屋宇之助父の宇右衛門さん、五十四歳、そして住吉屋太助弟の他吉さん十六歳の六件は、老人と同じくふっと家を出て行方不明になってしまった者で、かれらについては、「生得(しょうとく)愚かなる者」と書かれている。この六人は、十二歳から五十四歳まで年齢にかなりの幅があるが、共通して生まれつき愚か者だという。

 

 八百屋の父久次郎さん四十五歳は、「持病に癇症(かんしょう)」とある。「癇症」とは、病的な神経過敏症、あるいは神経質のこととされている。また、丸屋伊助の父藤八さん四十九歳は、「生得差詰まり候気質」とされているが、これはよく分からない。
 持病や気質と「うろたえ」のあいだには、どのような因果関係があるのかよく分からないが、持病の「癇症」が「うろたえ」の原因とされている事例は多い。(『京都町触集成』)


 「うろたえ」ているとは書かれていないが、迷子を知らせ情報を求める町触も町奉行所から出されている。寛政十二年十一月、三条中島町で五歳くらいの男の子が、夜の五つ時(午後七時から九時の間)にさまよっているのが発見された。町触れには、着ている物、名前と住所を聞いても、何を言っているのか分からない。疱瘡の痕があり、片方の目が悪い、というこの子に関する情報が盛り込まれている。そして、心当たりのある者は中島町へ行って確認し、間違いなければ京都町奉行所へ来るようにという町触れであった。五歳で「言舌あいわかりもうさず」、さらに片方の目が悪いということだと、状況としてはこの子は「うろたえ」ていたのであろう。いわゆる迷子や行方不明者なのか、あるいは捨て子なのか、この町触れだけではよくわからないが、捨て子の可能性がある。

 

 行方不明になった本人も、またその家族も、ともに「うろたえ」ていたのだろう。病になっても、痴呆症が発症しても、本人も家族も「うろたえる」ことのない社会や仕組が望まれるが、江戸期から現代に至るまで、それ程変化はしていないと思える。この種の話には平成の我々も「うろたえ」て、おろおろしてしまう方が多いのではないだろうか。


引用本:『大江戸世相夜話』 藤田 覚著 中公新書