はい、こんばんはyoneです。

今回はまた、昔想い出しシリーズとして、「大垣夜行」の記憶をひも解いてみました。それではどうぞ!

 

 今年1月、JRから「今春から臨時夜行快速列車『ムーンライトながら』(東京⇔大垣)を廃止する」との発表がありました。

 この列車の前身である通称『大垣夜行』は、私の学生時代(76‘~80’)帰省に旅行に大きな役割を果たした列車でした。また一つ、生きてきた“形見”が消えてしまうようで、非常に残念に思います。それでは、今から45年前の学生時代へタイムスリップといきましょう

 当時、相鉄線西谷駅近くに住んでいた私にとっては、国鉄横浜駅が自宅の最寄り駅でした。しかし、横浜駅では全く座れないので、東京駅まで行って並んで乗車します。「ムーンライトながら」は座席指定だったそうですが、当時は単なる全車自由席の普通列車です。
 東京駅発が23:28ですが、19時ぐらいから並びます。発車40分前ぐらいに入線してくると、私みたいな学生、若者に交じって、新幹線に乗り遅れたと思しきサラリーマン諸氏が165系(153系?)の急行型2ドア電車(当然ボックスシートです)に、席を確保すべくどっと乗り込みます。

 車両両端のデッキ付近は人が多いのと揺れが激しいので、なるだけ車両の中ほどで席を確保します。関西に帰省する友人らと連れ立って乗ったこともありますが、当然、私が一番遠いです。ビールを片手に「さあ今から1176.5kmの旅出発!」とか言うと、「お前あほやん!」と呆れられました。


 発車時間が迫ると、お酒が回った通勤客で両端通路付近はぎっしりになります。小田原を出ると快速運転になり、夜行列車の雰囲気が出てきて、足を延ばしてゆっくり、そのうち眠くなります。パッと起きたら静岡、次起きたら浜松。ちょっと停まるので自販機で飲み物を補給します。心地よい振動にさらに眠気が増してそのまま横に倒れて、一人で3席占領することもありました。途中ちょっと目を開けたら、目の前におばさんが座ってたりして、「あっ!すいません」とか言って起き上がったこともあります。
 

 名古屋で大体夜が明け、乗客の3分の1ぐらいが降ります。停車時間20分あるので、仲間がいるときは顔を洗いに出たり、中には「腹減った」とか言って買い出しに走る奴もいました。6時過ぎですのでぼつぼつ通勤通学のお客さんも乗ってきます。

 40分ぐらいで大垣に着きますが(7:13着)、到着前に出口付近に移動です。乗り継ぎの列車までわずか3分ですし、席を確保するためなのでやむを得ません。ドアが開いたらダッシュして(通称「大垣ダッシュ」)、階段を上り降りして西明石行(7:16発)に乗りこんで座席確保します。座席を確保したらまた眠くなります。

 途中、京都・大阪で遊んで帰ることもありました。考えれば、まともに寝てない状態で翌日もさっさと動けるというのは若さゆえですね。今じゃ考えられません。
 また「大垣夜行」にはグリーン車が2両ありました。グリーン券もすぐ売り切れてしまうので、発売当日頑張って並んで買いました。今みたいにネット予約なんぞない時代です。力で並ぶしかなかったのです。

 それから先ですが、大阪又は西明石で乗り継いで、12時前に姫路着。乗換時間があるのでホームで立ち食いうどんを食べます。そこから、岡山、広島、徳山、下関、門司で乗り換えます。食費節約のためkioskでパンを買ってかじります。
 最後門司で乗り換える列車が、客車の普通夜行列車「ながさき」号、長崎・佐世保行です。さすがに疲れが出て瞼が重くなるんですが、万一寝過ごしたら長崎・佐世保ですから、絶対寝れません。決死の覚悟で目を開けて、当時実家のあった鹿児島本線福間駅(当時博多駅から6駅手前)に0:22に着きます。毎度迎えを頼んでいた親父から「いいかげん、こげな時間に帰ってくるな」と小言を言われたものです。

 さて上りですが、「大垣夜行」の上りは、大垣発20:23発で間に合いません。そのため次善の策として、博多から夜行急行列車(19:23発「阿蘇」、22:11発「雲仙西海」)に乗って、新大阪から東海道線を上りました。車両は14系客車、簡易リクライニングシートなので、大垣夜行と比べて多少は楽でした。急行券代700円(指定券込みで1200円)かかりましたが、これぐらいはしょうがないですね。

 またこの「夜行急行列車乗継ぎプラン」は、下りの「大垣夜行」の代わりに何度か使ったことがあります。朝横浜駅を出て、新大阪まで行って乗継ぎます。よく乗ったのが横浜駅発6:54の沼津行でした。

 ところで「ムーンライトながら」は「青春18きっぷ」利用者には大人気だったそうですが、当時「青春18きっぷ」はありません。調べると82年3月に発売になったみたいです。

 また、当時大垣夜行同様、各地に夜行普通列車がありましたが、飲んだ帰りに利用するにはかなり危険な列車だったと思います。私が福岡の岩田屋デパートに就職後、北九州の戸畑支店の方が、自宅に帰るのに「ながさき」号で寝過ごして、終点まで連れていかれたという実話を聞きました。
 なお、当時はまだ夜行列車に加え、急行列車も数多く走っていました。この後、急行列車は特急に統合されるか、快速に落とされて次第に姿を消していきます。


(当時の雑誌「旅と鉄道」(80’夏の号)に当時の夜行列車が記載されていました:ちなみに普通と急行のページです))


 次に、当時の運賃を振り返りましょう。76年夏当時、国鉄の初乗りが30円(76年11月値上げ後60円)でした。博多まで普通運賃は4,500円(6,500円)、学割(2割引)と往復割(復路2割引)を使うと、往路が3,600円(5,200円)、復路はなんと、2,880円(4,160円)と今では考えられないような値段でした。さらに、片道1001kmを超える場合、往復乗車券の有効期限が1ヶ月でしたので、まさに帰省には「コレ!」でした。(現在、往復割引は601km以上で往路復路共に1割引、有効期限は片道の2倍となっています)
 その後、国鉄の経営悪化によって運賃がどんどん値上げされます。調べてみると、78年8月から80円、79年5月から100円、82年4月から120円でした。したがって、卒業間近では博多まで多分2倍以上にはなっていたと思いますが、それでも、当時の航空運賃(羽田⇔福岡)が確か36000円でしたので、やはり飛行機は「高根の花」です。高速道路も全線開通していたのが名神と東名ぐらいですので、当時中長距離の輸送についてはまさに国鉄の独壇場だったのです。今じゃ考えられませんが・・・。


 最後に当時の国鉄にあった「手荷物」「小荷物」についてお話ししましょう。当時は主な駅には手荷物・小荷物の受付窓口があって、手荷物(チッキ)は、窓口で切符を見せると、目的地の駅まで、または別料金を払えば配達もしてくれました。

 切符なしの場合(小荷物)は、料金は高くはなるものの、手荷物同様の取り扱いをしていました。実は当時福岡の実家から横浜のアパートまでは「手荷物」「小荷物」で引越を完結させました。但し、荷物は駅の窓口までもっていく必要がありましたし、ひもをかけて厳重に荷造りした上で、荷受人・荷送人を書いた紙を荷物本体の他、荷札にも書いて、ひもにくくりつけなければならないなど大概面倒でした。

 宅配便がまだなかった頃、それに代わる役割を国鉄が担っていたわけです。そのため、当時の時刻表には「荷物列車」の時刻の記載がありました。
 

※時刻は交通公社の時刻表1977年12月号によります
 (続いては「大垣夜行」以外の帰省手段の記録です)