義 どうとく道徳 ぎり義理 義兄弟 義足
後から付け加えるもの とって付け加えたようなもの
義 どうとく【道徳】は、道の徳と書くように、道を通り、徳と思ったものを道徳とすることなので、後から加えるもの
キの始念は、発するものを治める、発生したものを治める それが気
ここでの義は、一度道を通る時に、発生したものを治めて一つの考えとすること
これが、最初の気
一度道を通り、その時のことを元に発生したものを、よく考えて治めたものが、義というこことであり、それが道徳ということ
道の徳、道を通って知ることができた徳ということになる
ギとは、発生したものを一度治め、治めたことを元にして、考えを発生させてもう一度よく考えて治めたもの
これが、ギの始念のようです
儀は儀式、礼儀の儀
儀は人が行うことの時に使われる言葉
義に人偏が付いているように、人が義と思うことを、儀式として、形にしたもの
結婚式の儀式も、良いと思うことを、形にしていったもの
礼儀も、礼儀について発生する思いを段々と考えを治めていったもの
ギの始念の通りになります
議は話し合いのこと
言ったことから、発生するものを治めることを、何度も行い、その議会にて発生するものを治めるための言葉
不思議の意味は、フは予期せぬこと、シは思い、議は話し合うこと
予期せぬ思いは話し合うこと
話し合うことで、不思議とうまく行く
話し合うことで、不思議と思うことがある
予期せぬ思いと何度考えあうこと
予期せぬ思いを、何度も言葉にして、発生しても治まらないこと
不思議の議は、言うことを治めるということですが、人の言うことが治まることはないこともあるので、この議は、きちんとは治まらないということのようです
治まるまでは、何度も話し合うことが必要なようです
議会も同じ意味があるところだということになります
犠は犠牲
牛の義と書くので、ウシという言葉がポイントのようです
牛を犠牲にすると考えると、昔の人は、牛を人のために働かせていたので、人の生活のために、牛の生活を人のために犠牲にしていたと考えることで意味は合います
ウシのウを有として、シを思とすると、有になった思いを、犠牲にするという考えも浮かびます
愛を犠牲にするといえば分かりやすいですね
有になった思い
このことにギを加えると、なぜ犠牲になるのか
義は、義理
義理のために、有になった思いを犠牲にする
一度、有になった思いを、義理のために、壊す方向に治めること
これが、犠牲の犠ということになります
蟻はあり
一度発生した虫は、蟻に治まる
ここでもギの始念の通りに、二度治まるということのようです
偽は人の為と書いた字です
ギノ始念に当てはめると、為を思う、そしてもう一度人の為を思う
その時には、自分の正直な心を偽ることが多い
仕方ないことかもしれませんが、人の為に自分を崩さなければいけないことはよくあることだと思います
違う考えだと、人の為と言って、自分の為に行うこと
これが偽るということ
人の為といって、人の為でないこと
一度人の為と治め、次は人の為と治めるために自分を偽ることと、
一度人の為と治め、自分の為にと治める人
この二つのどちらも、偽っていることになります
でも前者は、人の為を貫くためであるので、相手の人の為になった時は、為になっているので、偽りではなくなると思います
疑う、疑をギと読むのも、ギの始念通りに考えてみます
疑うというのは、相手が嘘つきだということが、治まっているとすると、その人から発生される言葉は、嘘に治まるという先入観があるから、疑いに治まるということだと考えることができます
または、一度知って治まったことと違うことを言われたら、疑いに治まるということにもなります
擬はにせる、なぞらえるという意味です
一度発生して、まとまったものに似せて発生させて治めたものですね
これもギの始念の通りに考えると意味がよく分かります
そして疑わしいものということかもしれないですね
扌(てへん)が付いているのは、手を加えたということのようです