「国造りの必死さ」学びたい

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以下抜粋

改めて、木簡が書かれた7世紀末という時代を見てみよう。

 ◆あの「白村江」から20年

 玄界灘を渡った日本(倭国)軍が唐・新羅連合軍と戦い大敗した「白村江の戦い」(663年)から、20年余りしかたっていない。飛鳥の朝廷の指導者には、それらの国々に攻められるという危機感すらあった。

 「壬申の乱」(672年)を勝ち抜いた天武天皇や皇后の持統天皇、そして孫の文武(もんむ)天皇のもと、大国の唐や朝鮮半島を統一した新羅に対抗しうる強力な中央集権国家を造りあげる歩みが始まったばかりの時期でもあった。


指揮命令系統がはっきりせず、戦略らしい戦略もなかった。むやみやたらと敵の軍船に突っ込み、迎撃され大敗したのである。こうして得たのは、組織した軍隊を作り上げなければ国が滅ぶという冷厳な教訓であった。

 朝廷が最初に手を付けたのが、人々を把握する戸籍の作成であった。徴税や徴兵のための、すべての基本となるデータである。


◆日本版「万里の長城」も

 偶然だが今月初旬、九州に飛んで太宰府市を中心に水城(みずき)の跡や大野城跡を見て歩く機会があった。水城は「白村江の戦い」の直後、大宰府防衛のために築かれた大規模な濠(ほり)付きの土塁で、大野城は「逃げの城」である。

 ともに、唐と新羅によって滅ぼされ、日本に亡命してきた百済の工人の技術によって造られた。極めて堅固な構築物で、約600年後の鎌倉時代、モンゴルの襲来に際しても、実際の役に立ったことが証明されている。


迫り来る外敵侵攻の脅威に、どう備えたらいいのか…。必死に思い悩む先人たちの表情が浮かびあがった。

ひるがえって現代。国の内外を見渡せば、状況こそ違うものの、国家としての危機の深刻さは変わらない。

 戸籍木簡が語りかける、国造りのための先人たちの「必死さ」に学ばねばならない。
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