人知れず咲く、サボテンの花は
困難な状況にも耐え忍び、愛や、感情を長続きさせる、力強さや、忍耐力を象徴する花言葉で、唯一ボクサーに似合う花。である。
これは、横浜さくらボクシングジムのサボテンの花達の物語である。」
会長が事務所で帰り支度をしていると電話かかってきた。
会長、真理子です。覚えてますか?川田真理子です。
おお、おぼえとる。覚えとるぞ山口の
下関で頑張ってると聞いとるぞ。
女子ボクシングで頑張ったのは、うちのジムでは真理子は草分け的な存在じゃけんのぉ、
急にどうした。
会長久しぶりにジムに遊びに行っていいですか。
ええぞ、大歓迎じゃ。
「来週の土日にかけて伺います。当時の女子仲間にも声をかけてますのでよろしくお願いします。」
「待っとる待っとる。元気な顔を見せてくれるのが何よりじゃ。同窓会じやな。」
引き継いだ事業が軌道に乗りましたからきました。次にジムに来る時は事業がうまく行ってからと決めてましたから。
「それでええんじゃ、真理子らしいな。」
川田真理子は、公立の大学のボクシング部に所属していた。
女子ボクシングが芽生え始めた頃の事であった。
ボクシング教えて下さい。
大学が休みの日しか来られませんが大丈夫ですか。
週1か2。うむ。そうだな。
1、大学のボクシング部の教え方と異なっても、大学で異論を唱えない。大学ではそれに従う事
2、教えた事をメモっておく事、やって出来なかった事、課題をレポートして提出することを、約束をして承諾した。
彼女は、週末練習に来ると、普段来てない分を取り返すごとくトレーニングに没頭した。
当然それなりの成果が出た。
当時アマチュアボクシングもどきの試合が開催される様になり真理子はそれらの大会に参加して勝ち星を重ねた。
ボクシングに関わりながら大学を卒業すると両親を帯同してジムに来た。
娘がもう少しボクシングをやりたいと言うので面倒見てやって下さい。
真理子は、アルバイトをしながらの生活でボクシングを続けた。
そして、韓国で女子の世界タイトルマッチの前座で、エキシビジョンマッチとしてリングに上がる機会を得た。
アマ連が女子ボクシングを承認するすこしまえのことであった。
真理子が1番輝いたリングだったかも知れない。
そんな彼女のところへ、会社の社長として帰省する様にとの要請が来た。事業継承者不在の為として白羽の矢が当たったのである。
大学を卒業して2年ボクシングに明け暮れた生活に区切りをつけ24歳にして苦労を背負う事となった。
真理子の身内に事業継承者が居なかったこともあり、引き受けざるを得なかった。
同族会社であった会社の事業内容は、産廃事業とセキュリティ事業、それを継承し、更に新規事業として、タックルベリーをフランチャイズで始めた。
若干24歳の若い女社長、産廃業者でも特別な存在であった。真理子には多くの社員の生活を守る責務が生じた。
まず彼女が取り組んだ事案は、同族会社の悪癖を取り除く為、親戚関係者の退職を促した。退職金の手当は取引銀行から、借金をして、賄ったと話した。
次に産廃から出るゴミを、処理プラントをつくってゴミを肥料として生産した。着眼点が良かった。
地元農家と契約してこの肥料を利用した有機作物を生産した。
山口に帰省してから保守的な田舎の環境の中で小娘社長は、無我夢中で頑張ったのであろう。ボクシングにかけた青春と同じくらいにいやそれ以上だったのであろう。それなりの苦労した事が地方出身の会長には見て取れた。
土曜日ジムには懐かしい顔ぶれが揃った。元空手出身で寸止め格闘技からボクシングをはじめた藤野恭子、藤野の会社の同僚、吉川祐子。ボクシングファンが講じて始めた箕輪晴子。当時高校生だった岸本春奈、当時のメンツが揃った。あれから6年が過ぎた。箕輪だけが女子アマボクシングが承認されてアスリートとして活躍していた。
次の日「サボテンの花達」が久しぶりにグローブを合わせてトレーニングを始めた。
以前の熱気がジムの中に戻っていた。
真理子は、藤野恭子とグローブを合わせマスボクシングを始めた。
その時
真理子の目にキラリと光る涙を見た。涙は会社運営を軌道にのせるまでの苦労を連想させた。
心の許せる仲間たちとの再会が当時を彷彿させ安堵のひと時だったのであろう。
会長は真理子の涙を見逃さなかった。そして会長はその思いを共有して何も言わなかった。