自らの失敗の歴史を赤裸々に初公開してみた。(2014/12/31のツイートより) | ふくしま国語塾主宰 福嶋隆史のブログ

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株式会社横浜国語研究所 代表取締役/ふくしま国語塾 主宰 福嶋隆史のブログです。


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今日(昨日)の昼。日課の5kmウォーク終盤。イヤホンを通して流れてきたProgress※を耳にしながら考えたことをちょっと書いておきたい(※スガシカオ。「プロフェッショナル仕事の流儀」テーマ)。

失敗を経ずにプロになった人はいない。あらゆるプロは、失敗を乗り越えてプロになる。では、私自身の失敗とは、何だったのか。

ここから先は、ウェブでも本でも一切公開したことのない事実。

なんてもったいぶるほどではないが、でも本当にそう。

プロフィールページには、
2001 公立小学校教諭
2006 ふくしま国語塾
という情報しか書いていないのだが、まずその5年間にも、大きな失敗があった。

私は2001年に東京都の小学校教師として正規採用されたが、実はわずか1年で退職している。1つの理由は腰椎椎間板ヘルニア(医師の診断:とうの昔に完治済)…なんだが、もう1つの理由があった。それは、望まない方法で望まない内容の授業(ないし仕事)をせざるを得ない学校教師という立場に耐えられなかったこと。

学校教師にはただでさえ多くの制約があるが、初任者にはもっと多くの制約がある。そんな中、自分のやっていることが目の前の子どもたちを傷つけているようにしか思えなかったのだ。

私はある日、校長室をたずねた。「退職させてください」。

それまでの日々、管理職との間には多くの確執が積もっていた。私は週に一度以上のペースで、出勤直後、職員室の脇の理科室に呼び出された。教頭に。電灯もつけない暗い理科室で、ねちねちと小言を言われた。男の教頭だったが。生意気な29歳の初任者を放っておけなかったのだろう。

そして、退職を告げたときの校長の言葉はこうだった。「分かりました。引き止めません」。

いま思えば、熱心に私を指導してくださった同学年の学年主任であった指導教諭や、目をかけてくれていた年配の女性教諭には、申し訳ないことをした気がする。でも、正直、指導教諭の考え方にもまったく納得できないことが多く、不満ばかりが募っていたのだから、しかたなかった。

そんなこんなで退職した私は、国語専門の私塾を開いた。旧・ふくしま国語塾。JR戸塚駅から徒歩数分の距離にある築40年近い2階建て一軒家を月6.5万で借り、1階を塾に、2階を居住に使うことにした。

しかしその塾は、半年も持たなかった。印刷所に依頼する金もなく有隣堂のコピー機を占拠してB4コピーしそれを半分にカットして作ったB5サイズの白黒チラシ数千枚を、暑いさなかに自ら持ち歩きポスティングした。しかし、生徒は半年で10名にも達しなかった。

当時は1時間2000円ほどで生徒を募集していた。学生家庭教師レベルだ。どれほどの収入になるか、たかが知れている。教職の1年間でためた金はみるみる減り、底をつきそうになった。やむなし。私は塾を断念した。

ちなみに、1階は6畳だった。集団指導をできる広さはなかった。1対2の個別指導という形でやっていた。しかし、あの部屋でまともに授業をした記憶が、ほとんどない(笑)。無理もない。生徒がほとんどいなかったのだから。

それ以降、1階は雨戸を締め切ったままの暗い物置に変わった。塾のために買い込んだ机や椅子は虚しく放置。奮発して買ったPILOTの両面ホワイトボード*も放置(*これは今も現役で使っている)。

さて、どうやって生きていくか。有効な武器は……教員免許だけ。私は悩んだ挙句、小学校の臨時的任用教員に応募した。ただし、こんどは横浜市。半年前の二の舞になる恐れもあった。しかし、その道しかなかった。やりたいのは教育の仕事だけだったから。

そしてほどなく採用が決まった。2002年の秋。その学校には、2004年の春まで勤務した。期限付き採用なので、たとえば産休の先生が戻ってくれば出て行かざるをえない。そんなこんなで、更新を繰り返しながら、2004年度、2005年度は、それぞれ別の学校に勤務した。

断っておくが、臨時的任用教員とは言っても、仕事の内容や給与は、他の正規教員と何ら変わらない。異なるのは、「期限付きかどうか」だけ。だからむろん担任を持ったし、校務分掌も普通にたくさん担当した。部署の主任も多々、担った。

そういうわけで、私の小学校教師経験は、正確には4年半なのだが、面倒なので「約5年」などと説明している場面が多い(笑)。

東京都と横浜市で、合計4つの学校を体験できたことは、のちのち自分にとって大きなプラスになった。1つの学校しか勤務していないと見えないことが、多々見えたから。その詳細は、「小学校教育が危ない!」に書いてある。

ちなみに、「小学校教育が危ない!」のログは、どこかの出版社から新書化したいんだが、なかなか「そのまま使わせてくれ」という依頼がない。十分、それに堪えるコンテンツなんだが。まあ、一部は国ダメに入れたけどね。新書化されたあかつきにはログを消すので、読むなら今のうちです(笑)

そういうことで、1つめの失敗は、「旧・ふくしま国語塾」の失敗、なのであった。

でも、なぜ臨時採用を転々と続けたのか。途中で横浜市正規採用のための試験を受けるつもりはなかったのか。という疑問がわくだろう。そう。受けたのである。記憶が確かならば、二度受けたのである。しかし、どちらも落ちたのである。

いや。どちらも、私は絶対受かったと思っていた。たしか、経験年数により1次は免除となっていたと思う。で、論文・面接・実技試験のみ。論文には絶対の自信があったし、面接でも問題はなかった。では、なぜ落ちたのか。

実は私は当時、ホームページを公開していた(たしか実名も書いていたはず)。臨時的任用教員をやりながら。そして、日々思うことを積極的に書いていた。むろん学校関係の個人情報は一切書かなかったから、子どもに対しての問題は起きなかった。ただし、他の教師の指導法等への批判的言説が、問題を呼んだ(これも最大限配慮して表現していたが)。

誰かが、教育委員会に通報したらしいのである。おそらく、私が批判した教師のクラスの子の親だろう。で、ある日、校長室に呼ばれ、言われた。「自主的に削除することを勧める」云々。その後、削除した。じゃないと、次の臨時採用もないはずだから。

素直に削除したこともあり、また、管理職が私の働きぶりを高く評価してくれていたこともあり、次の臨時採用はつながった。しかし、正規採用は得られなかった。その理路、書かなくても、わかりますよね。

そんなわけで、これ以上横浜市の採用試験を受け続けてもダメだろうと認識。今度こそ、塾を成功させよう! と決意して、2006年春に、小学校教師を辞したわけである。

しかし、なぜ、当初は1年で怒りとともに辞めてしまった男が、半年後から3年半の勤務に耐え得たのか? それは、TOSSがあったからである。TOSSと言うと、twitterではオカルトがどうのこうのと好き勝手な解釈をされている団体だが、あんなのは瑣末な話。本質は全く異なる。

私はあるTOSSサークルに所属していた。月1回の例会のほかにも、数多くの大小のセミナー等々に参加し、また、企画側に回ることも多々あった。TOSSで学んだ知識と技術があったからこそ、自信を取り戻し、学校での勤務を続けられたのである。

私がどのTOSSサークルにいたのかは、プロフィールページをつぶさにチェックすればかなり簡単に分かる(笑)。

2006年春、私が小学校教師をやめるとき、そのサークルの先生は言ってくださった。「別に、学校をやめてから続けてもいいんだよ?」と。しかし私は、TOSSとのつながりも終わりにすることにした。

TOSSは今でも心から尊敬する団体であり人々である。あの団体を率いている先生方の力量には到底かなわないと今でも思う。彼らは、確実に日本の教育を良くしている。そこは間違いない。

ではなぜ、やめたのか。そのきっかけになったのは、TOSS授業技量検定で28級認定されたこと(笑)。28級というのは、相当な下のレベルである。

なんで28級なの? なんで、(同じサークルの)あの先生のさっきの模擬授業より下なの?? と、不満がわいたのである(笑) まあ、謙虚さが足りなかったと言えばそれまでだ。

まあ、そんなこんなで、TOSSにはもう関わるまい。自分は自分のやり方でやっていく。そう思ったのも、2006年春だったのである。

プロフィールページ等々の公的な場に一切TOSSの名を入れていないのは、そこにTOSSと書くことによって、逆にTOSSに迷惑が及ぶのを避けるためなのである。だって、私は独自の道を行くことにしたのだから。

2005年秋、採用試験に落ちたあとから、私は吹っ切れていた。そして、勤務校に通うバスの中で読んでいたのは「本を出すための本」。どうすれば自分の本を世に出せるかについて書かれたハウツー本。そこに書かれたとおり、2006年春、教職をやめた次の日から、満を持してメルマガを発刊したのだ。

その本には、こう書いてあった。まぐまぐからメルマガを出せ。そうすれば、3ヶ月後、遅くとも半年後には、出版社から連絡が来る――と(笑)。たしかに、来た。メルマガを読んだ編集者からの連絡が。ただし、3ヶ月後ではなく、3年後であった(笑)。

それまで、私は数多くのメルマガを書いた。自ら締め切りを決め、それを死守した。そうやって書いたうちの1つが、「小学校教育が危ない!」である。でもこのメルマガ、最終号配信時の読者数は、500だった。今思えば、恐ろしく少ない。

同時に書いていた「子どもの知力を高める100の方法」が、今も配信しているメルマガの前身である。そして、このメルマガを見て連絡をくださったのが、のちのベストセラー『「本当の国語力」が驚くほど伸びる本』の編集者だったのである。

と書いてめでたしめでたし、ではないのである(笑)。2006年から始めた「ふくしま国語塾」は、半ば家庭教師、半ば私塾という形態だった。正式名称は、「国語専門プロ家庭教師」だった。あの古い一軒家は離れ、別の家に移ってはいたが、やはり自宅を使うしかなかった。

週の3分の2は自宅で1対1指導。3分の1は家庭教師として各家庭へ。そういう日々だった。メルマガがまぐまぐ大賞にノミネートされるなどしてだんだん検索ヒット率も上がっていったおかげもあり、生徒数は、「旧・ふくしま国語塾」の頃よりは増えた。でも、まだまだ金銭的余裕はなかった。

そして、2006年夏から、私は(できたばかりの)横浜ベイクォーターの駐車場誘導員のバイトを始めた。そのバイトの勤務中も休憩中も、私の頭のなかは、今後どうしていくかで一杯だった。まだまだ不安定な仕事。続けるか。どうするか。そういう瀬戸際は続いていた。

人間、暇があるときほど悩む。だから、私は悩んだ。そして、2つの行動に出た。ここからが面白い(笑)

だんだん疲れてきたので、手短に書く。

驚くなかれ。私は、「日能研関東」の正社員の中途採用に応募したのだ。そして、落ちた。今思えば、あのとき受けた読解テストも面接も全うな成果は出せていなかったから、致し方ない。しかし今思えば、落ちてよかった。落ちたから今がある。(続く

※あとから調べたら、日能研を受けたのは2006年ではなく2005年の2月だったことが判明。つまり、3校目の小学校での勤務が終わる時点で、学校教師をやめて塾を開くか、既存の塾に就くかを選ぼうと思っていたわけだ。まあ、迷いまくっていたことには変わりない。

続き)なぜこれを今まで書かなかったのかというと、私は日能研を批判しまくっているからである(笑)。つまり、心理学で言うところの「酸っぱいブドウ機制」で批判していると思われたくなかったので、書かなかったのである(笑)。(続く
続き)でも、そうではないということは、『国ダメ』などをお読みの方にはよく分かるであろう。私は、全うな根拠を持って、日能研を批判しているのである(SAPIXも然り)。

まあもともと日能研の生徒だった私としては、憎しみのようなものは一切ない。むしろ親しみがある。しかし、逆にそれもあって、批判が増幅するわけだ。

日能研を受けたきっかけは、リクルートの某サイトに登録していたら打診が来たからというのが直接。ただし、そもそも登録した動機は、塾として成功するには他の成功している大手塾で一定期間学ぶ必要があるのではと考えたからであった。しかし今思えば、そうでもなかったわけだ。

あと1つ書いて寝る。

なんと、血迷った私は、今度は川崎市の臨時的任用教員採用に応募したのである(笑)。覚悟がない(笑)。金がないという事実は、そのくらいに人を迷わせるのである。

ただし、これについては結局、声がかかった直後に自ら撤退したのであった。こんなことでは成功はあり得ない。そう思って、書類を破り捨て、電話をし、採用を辞退した。そこから、ようやく、本当の戦いが始まったのであ~る。

それ以降は、大きな失敗はしていない。しかし、成功しているとは決して思っていない。いつも不安がつきまとっている。代ゼミですら縮小を余儀なくされる時代なのだから。

そういう不安を払拭する方法は1つ。前に進むことである。失敗を恐れず、挑戦することである。挑戦しなければ失敗はない。が、成功もない。失敗とは、挑戦したことの証である。

プロフェッショナルとは、挑戦を続ける人間だけに与えられる呼称である。失敗覚悟で前進できる人。それがプロフェッショナルである。

当たり前のことだが、このことを確認して、2014年を終えたいと思う。

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