「特に放哉の句が好きだ。精神的飢えの中で仕事も妻も捨て、酒に溺れ俳句にのめり込んでゆく生きざまに惹かれる。(中略)川柳も俳句と同様に良い句を書こうとするならば、作者の技巧-上手さは前提である。しかし、その上手さを超えねば良い句を書き得ないと晩年の放哉の俳句が私に教えているようだ。そのことを考えると私はまだまだ作句に苦しまなければならないだろう」これは昭和六十三年、炎樹賞を受賞したときの大島の言葉である。


生きる術のすべてを失い、二十数年書き続けた俳句の技巧を捨てて捨てきった末にようやく自らの俳句を手にした尾崎放哉の生き方が、大島洋の死生観に動揺と影響を与えたのは間違いないであろう。


しかし見逃してはならないのは、放哉は、例えば種田山頭火とは違い、最晩年を過ごした小豆島でのわずか八ヶ月の生活は、自ら選びとったものではなかった。


「大酒飲みで、酔えばねちねちとからんでくる酒癖の悪い放哉は、生活能力の点では全く無力な人間であった。妻とも別れ、漂泊の旅といえば聞こえはいいが、人の温情にすがって転々とする生活であった」(海も暮れきる 吉村昭 講談社文庫版)


放哉は酒癖の悪さでしくじりを繰り返し、結果としてこの生き方に堕ちてきたのであり、遺された彼の俳句を横に置き、ひとりの人間の生き方としてみるならば、決して共感を得るような生き方をしたわけではない。大島は当然(人間としての)放哉も知っていたはずであり、それでもなお、放哉の俳句に魅せられていたのである。


技巧を超えなければ好い句は書き得ない、日夜そのように念じ、作句に苦しむ大島の、川柳家としてのドグマに、立ち竦んでしまいそうになる。


炎樹賞受賞の翌年、平成元年から大島の表現が変わりはじめる。


 故郷捨てた息子と遠く日曜日 洋 

 弱き者ふたりが見てる遠花火 洋

 巡査と出会う老婆と出会う 私は風 洋

 灯りを消すと風の音だけ聞こえる 洋

 雪の降りしきる樹に犬が繋がれている 洋

 

かつて「あれは羅生門の炎か次々鳥になる」と書いた作家が「灯りを消すと風の音だけ聞こえる」と書くまでに、どれだけの長い川を渡り、どれだけの血が流れ続けたことか、を知ることはもうできない。できないが、以降大島の川柳から強い表現は消えていったらしい。五十五歳のときである。彼自身「ようやく技巧を超えることができた」と感じることができたのだろうか。


平成五年、大島は脳溢血で倒れる。幸い一命は取りとめたがこのときの私信が残っている。


 「(略)ご覧のように文字がよく書けません。体重も十一キロ瘦せ衰え歯もボロボロで・・・実は入院中も私の川柳のあり方についていろいろ考えました。当分の間川柳を休むことにします(略)」


体が消耗しきっても考えていた「私の川柳」とは何か。それを誰にも伝えることなく、川柳休むことしかできなかった。このときの大島の孤独感を想像すると胸が痛む。


平成八年大島洋死去。享年六十一。


五十一歳で仙台から小樽へ移住し、それから十年。大島の「私の川柳」は技巧を超え彼の望んだように変貌を遂げた。が、彼は「私の川柳」を誰にも引き継がせなかった。それがとても残念でならない。

 

 トンネルに列車が入るそれだけの風景 洋

 

 ※本稿は浪越靖政氏の「大島洋ー放哉の飢えを求めー」を参考にしてあります。氏の好意に感謝いたします。



(せんりゅう紫波2018.11から転載)