大島洋がフロンティアとして選択した地は小樽市であった。五一歳のときであった。


    小樽市は、川柳作家田中五呂八が活動の拠点とした地である。穿ち、軽み、滑稽味を拒否し、「川柳は詩なり」と断じ、生命主義を唱えた五呂八の川柳と大島の川柳の世界観が近い、と書くのは先を急ぎすぎだろうか。


田中五呂八と大島洋の句を並べてみてみよう。

 

神経を陽にさらされた木の嘆き 五呂八 

月に寝る橋の長さを振りかへり 五呂八

神が書き閉づる最後の一頁 五呂八  

闇を切る星の深さを闇が吸ひ 五呂八

人の住む窓を出てゆく蝶一つ 五呂八


街枯れて切絵の魚が眠らない 洋

木偶の死を知らない街の大時計 洋

真夜中の水汲みにゆく偽のキリスト 洋

正解は誰もいぬ冬の夜のパズル 洋

この女にもう逢うこともなき道凍てる 洋

 


 移住した昭和六一年の五一歳は、は感覚的には現在の六十歳くらいだろうか。実社会の働き手の男としてはそろそろ戦力外という年代であり、これからを生きていくうえで、残すもの、棄てるものに、決着をつけなければならない時期である。


    それゆえ川柳人として更に深い場所へ行きたかったのであろうと想像する。 


 この頃のことを浪越靖政さんに尋ねてみたところ、「小樽を選んだのは、高台から眺める海が綺麗だったこと(大島はそこに家を建てる)、同年代で川柳観も近かった、小樽川柳社主幹、石井有人がいたからではないか」ということであった。


    石井有人、斎藤大雄と、北海道には地平線を見るような巨大な川柳人がいた。

そして石井有人とはこのようなことをいった川柳人であった。  


   『私たちが川柳作品に共鳴や共感するのは、私たちの命の根底に横たわって脈うっている大きな言葉の流れが、ある表現の句に触れた折にびりびりと感応し、そのうちに潜むものを引き出す力の目覚めを感じるからである。(中略)一人一人が本質的にまたは究極的に孤独な存在であるからこそ、知り合い、語り合い、愛し合い、憎み合い、ときには結びついたり離れたりすることにより、人生の昔も今も変わらぬ、美しくて哀しい風景が涯てしなく展開することになる』 (川柳作家全集石井有人 新葉館出版)


    川柳が他者と共感、共鳴できるのは、本質的、究極的に孤独であるからこそだ、と書いた石井の一文は興味深い。孤独者との共感、共鳴が大島洋さすらいの源泉のひとつではないか、と思うからである。


石井有人の句と大島洋の句を並べてみてみよう。

 

行方不明 誰かが誰かの風つれて 有人 

眼底の河渡りゆく 不審船 有人 

オーロラを追う旅人の列にいる 有人

眠らない川に押される有縁の背 有人

指紋から指紋にうつる血の泪 有人


あれは羅生門の炎か次々と鳥になる 洋

街に行って蛇の言葉を覚えるか 洋 

大道芸人の掌は醜きか鳩よ 洋

一膳飯屋でめしを食う曲がったままの影 洋

鉄骨だらけの劇場が立つ昨日の海 洋

 

    

    石井有人がいう孤独者との共鳴、そして大島にはもうひとつ超えなければならないものがあった。技巧との決別である。

    それは尾崎放哉が歩き、倒れた道に続いていた。  


(せんりゅう紫波2018.10より転載)