アクセス解析によると、こちらのブログには検索エンジンから読みに来てくださる方が6割とのことで、おそらくは「美容整形 失敗」「鼻翼縮小 小鼻縮小 失敗」というワードで辿り着かれたのかなと思います。

 

自分が美容整形手術で大失敗して社会から離脱してしまったため、これから美容整形手術をしたい、しようと思われている方には私のようにはなってほしくない!!という思いが強すぎるあまり、思い留まっていただきたくてネガティブなことばかり書いてきました。

 

それゆえに、既に鼻の手術を受けられた方には、余計な不安感や罪悪感を抱かせてしまったのではないかと思いましたので、今回は既に美容整形手術を受けられた方、その中でも私と同じように取り返しのつかない失敗をされて、現在苦しみの渦中におられる方に向けて、私が考えていることを書いてみたいと思います。

 

その前に、ふと思ったのですが、美容整形手術においては「失敗」という言葉は軽すぎではないでしょうか?

お菓子作り失敗しちゃった~!どころの話ではないですからね…

学校や職場内の暴行、傷害を「いじめ」という言葉に置き換えて、重罪を軽罪っぽくしているのと似ている感じがします。

それに「美容整形失敗」という字面は、さも患者側に非があるかのような錯覚を起こさせる気がします。

なので、これからは「美容外科の医療過誤」と言葉で統一しようと思います。

ブログのタイトルも変更します。

ただ、便宜上「失敗」という言葉を用いることもあるかもしれませんので、あしからずご承知おきください。

色々細かくてすみません。

 

話が脱線しましたが、私と同じような目に遭われた方は、ご自身がそのクリニック及び医師を選んだこと、延いては美容整形手術を受けたこと自体を後悔して、罪悪感に苦しんでおられるのではないでしょうか?

 

私もそうで、後悔しない日はないのですが、それでも最近は「仕方がなかったのかもな…」と思えるようになってきたのです。

 

うまく伝えられる自信がないのですが、今自分の身に起きていることというのは、すべて潜在意識が望んだことであるらしいのです。

 

もちろん顕在意識では「絶対に成功させたい」「コンプレックスを解消したい」「きれいになりたい」と願っているのですが、自分では意識することができない潜在意識の領域では、「美容整形手術で医療事故に遭って、めちゃくちゃ苦しみたい」とか思っているかもしれないのです…。

 

私の場合は、これは自分の思考の域で想像したことなので、本当は違うかもしれないのですが、「私は人間が嫌い。怖い。だから人間と関わりたくない。ずっと安全な家の中にいたい」という願望から、美容整形手術で医療過誤に遭って、家からほとんど出られなくなったのかも?と思いました。

 

もしくは、いきなり壮大な話になりますが、潜在意識=魂、ハイヤーセルフの領域とするならば、魂が人間性向上のために、今世では「顔の一部を失ってめちゃくちゃ苦しむ」という経験を通して成長することを望んだのかも?しれません。

 

そのために不細工に産んでくれて、なおかつ自己肯定感をそぎ落としてくれるような親を選び、自己肯定感を低くしてくれる友達や環境を選び、この人生の長期的テーマである「顔の一部を失ってめちゃくちゃ苦しむ」というストーリーを実演中なのかも?しれません。

 

もしそうだとすると、この経験をするためには、今の時代に生まれてくる必要がありそうです。50年早く生まれて来ていたら、美容整形手術は受けていないでしょうし、100年後には医療技術の進歩とともに、美容外科医になるためのハードルが高くなり、今のようにヤブ医者がはびこることはなくなって、もっと患者のメンタルに寄り添った医療になり、安易に手術をするという事自体がなくなりそうです。(←そうなってほしい)

もっとずっと先の未来では、精神性が最重要視されていて、「昔の人は顔に異物を入れたり、メスで切り刻んだりしていたらしいよ~」「え~野蛮!」と言われる世界になっていることを予想しています。今の私たちが中国の纏足(てんそく)について抱く感覚のような。

 

なので、今起きていることが魂(ハイヤーセルフ?)の計画なのだとしたら、防ぎようがなかった、としか言いようがありません。

 

自分の意思で選び取っているつもりですが、実は選ばされていただけなのかもしれません。

 

全て「かもしれない」の話なので、そんな空想話はいらんねん!と怒られてしまうかもしれませんが、最近はそれが本当のような気がしています。

 

なので、

全ての出来事は起こるべくして起こった

自分にその経験が必要だから起こった

それは抗いようがなかった

かもしれない、

と思ってみてはいかがでしょうか?

 

そうすると、自分自身を責める事には意味がないように思えてきます。

 

私は鏡を見て、変な鼻になってしまったな…と悲しい気持ちにはなりますが、「でもこうなりたかったんだよね」と自分の潜在意識?なのか魂?なのかわかりませんが、そういう領域の自分?に言っています。

そうすると「ならしょうがないよね」という気持ちになるんです。

 

だからといって現実が変わるわけではありませんが、自分の気持ちが落ち着きを取り戻すのです。

 

こいつ何言ってるの?と思われるかもしれませんが、そういう捉え方もありますよ、というご提案でした。

 

 

昨日のブログでは、自分は美容外科の医療過誤によって「外貌の醜状障害」を持っている身なのだと思うことで、今後もずっとマスクを着用し続けなければならなくなった現実を、自分に納得させる、ということを書きました。


今日書いた内容は、それよりもさらに心の深い部分で自分を納得させる解釈の仕方になるのではないかと思います。


今苦しんでいる方のお気持ちが少しでも軽くなりますように。

前回のブログでは、初回手術から2年7ヶ月が経過して、やっと自分の鼻が「普通」ではなくなったことを認められるになったことを書きました。

 

ここで言う「普通」というのは、形の美醜のことではなく、人間が生まれ持った本来の自然な鼻の状態のことです。

 

この地球上に、自分と、自分を心から受け入れてくれている人間(夫、妹、父親)しか存在していなければ、これ以上悩むことは何もないのですが、もちろんそんなわけにはいかないので、色々と悩みが発生します。

 

生きていくためにはどうやっても人に会う必要があります。(食料、日用品の買い出し、病院への通院など)

 

こんな顔なので、家から外に出る時はマスクの着用が必須です。

 

今は皆もマスクを着けていますが、蒸し暑くなる頃にはほとんどの人が外していくでしょうし、来年再来年には屋内でもノーマスクが当たり前になっていくでしょう。

 

そうなってくると、「あの人いつまでマスク着けているんだろう」「真夏なのにマスクしておかしい」と思われるのではないかと、怖くてたまらないのです。

 

自意識過剰ですよね。

誰も私のことなど気にもしていないだろうと、頭では分かっているのですが…。

 

 

そういえば、コロナが流行するよりもっと前のことですが、顔面が痒くてたまらない皮膚病になり、ボコボコで傷だらけだった時期がありました。

その当時はステロイド剤に頼るのがどうしても嫌だったので、自然に治るまで放置していて、1年近くマスクを着用していました。

職場でも絶対にマスクを外さなかったので、「なんでずっとマスクしてるの?」「いつまで着けてるつもり?」などと色々言われましたが、皮膚病が治ったらいつでも外せるし~と思っていたので、自分だけがマスクを着けていて恥ずかしい、などという気持ちは一切なかったのです。マスクを外すのは恥ずかしくて嫌でしたが。

 

けれども今は、美容整形をしたことが絶対にバレたくない、しかも失敗して不自然になっているので、こんなのが露わになったらネタにされて笑い者にされる、という恐怖心がすごくあるので、マスクを外すのが恥ずかしくて嫌なのはもちろんですが、この状態は絶対に治らないので、自分だけが一生マスクを外せないということも恥ずかしくてたまらないのです。その羞恥心であったり孤独感が、余計に自分を苦しめています。

 

ただでさえこんな鼻になって辛いのに、人からそれを笑われたり、一瞬でも変な目で見られたりしたら、今の私の精神ではきっと耐えられません。プライドが高すぎるのでしょうか…。

 

少し話が逸れましたが、私の場合は、過去の経験のように「病気」であれば、マスクを着用するのはやむを得ないことだと自分が納得できるので、マスクを着けることに羞恥心や抵抗はあまりありません。

 

そうであれば、今の状態をどう捉えれば自分を納得させられるのかを考えました。

 

そこで思ったのは、美容整形手術の失敗というのは医療過誤なので、事故と同じだということです。(お前は自分から望んで手術を受けたのだから自業自得であって、事故ではない!被害者面するな!という反論は、ここでは受け付けません)

 

 

事故により、鼻翼が欠損し、鼻翼の形状が不自然になり、陥凹瘢痕が残った。

そのことでメンタルが不安定になり、それにより外出が困難になり、社会復帰ができなくなった。

それは明らかに「障害」なのではないかと思うのです。

 

交通事故で負った外傷が、治療後も傷跡、瘢痕、ケロイドといった醜状痕を残す後遺障害のことを「醜状障害」といい、顔面部に残ったものは「外貌の醜状障害」と呼ばれています。

 

私の場合は美容整形手術によってできた醜状痕なので、上記の「外貌醜状」には全く該当しないのですが、精神的苦痛に対する「後遺障害慰謝料」と、社会復帰が困難になったことによる損害に対する「後遺障害の逸失利益」を要求したいくらいです。

今となっては訴えることもできませんし、する気もないので、もうどうでもいいのですが…。

 

また少し脱線してしまいましたが、今の自分は「外貌の醜状」が日常生活を送る上での「障害」になっていることは確かなので、自分は「外貌の醜状障害」を持っているから、マスクを着け続けることは仕方のない事なのだ、と思うことで自分を納得させることにしました。

 

事故で手を失った人が義手を、足を失った人が義足や車椅子を使うのと同じで、鼻翼を欠損したのでマスクを着ける。ただそれだけの事だと思うことにします。

 

けれどもそこに、私は事故の「被害者」だという意識は持たないように気を付けなければなりません。

 

自分から依頼して起きた事故で、自分がその医師に依頼しなければ、もっとよく考えていれば、そもそも手術なんてしなければこんなことにはならなかったので、「被害者」ではありません。

 

ただ自分の軽率な判断によって事故に遭い、「障害」を負い、一生マスクが必要な顔になった、というただそれだけの事です。

 

このくらいいつもドライな気持ちでいられたらラクなのですが、家から一歩外に出ると途端に気持ちがざわついてしまいます。

 

どんな場面でも淡々としていられる自分でありたいものです。

 

今日は取り留めがない内容でしたが、自分の心の整理になりました。

 

ここまでお読みいただいた方がいらっしゃいましたら、大変ありがとうございます。

こちらのブログではこれまでに何度も書いていますが、私は美容整形手術によって、鼻翼を切り取られ過ぎたことで鼻翼が欠損し、不自然な鼻になりました。マスクなしでは到底人前に出ることはできません。

 

最初の手術を受けた日から2年7ヶ月が経過し、ようやく自分の鼻が「普通」ではなくなったことを認めることができるようになってきました。

 

今更?と思われるでしょうが、この期に及んでもなお、

「もしかしたら他人から見たらそこまで変には見えないのかも?!」

「自分が変だと思い込んでいるだけなのかも?!」などと思い、

1日に何度も色んな角度から鏡を見て確認しては、

「やっぱり不自然だわ…」と落胆したり、

「この明るさでこの角度なら変に見えないかも!」と無理に自分を納得させたりしていました。

 

けれども、数日前にまじまじと鏡を見ていた時、

「ああ、私の鼻はもう【普通】ではなくなったんだ。鼻翼が欠損して、縫合痕がくっきり凹んでいて不自然な形の鼻が、これからの私の鼻なんだ」と、突然腑に落ちたのです。

 

もう降参しました…!という感じです。

 

その日からは無駄に鏡を見て確認することがなくなりました。

見ても意味がないことに、やっと気が付いたのです。

 

 

ところで、アメリカの精神科医であるエリザベス・キューブラー・ロス(1926~2004)の「喪失の5段階」をご存じでしょうか?

 

死に直面した時にたどる心理的プロセスです。

「悲嘆のプロセス」などとも呼ばれています。

 

「究極の喪失」を人はどのような過程で受け入れていくのかを5段階に分けたものです。

死に限らず、小さな喪失の場合にも、同様のプロセスを辿るとされています。

 

第1段階:否認と隔離

予期しない現実に直面した時、そのショックをまともに受けないために、まず否認が起きる。

「そんなわけがない!」と否定してパニックに陥る。

 

第2段階:怒り

「なぜ自分がこんな目に遭わなくてはいけないのか!」と怒りや恨みの感情が湧く。

 

第3段階:取引

喪失の恐怖から逃れるために、何か(神仏など)にすがろうとする。

失ったものを取り戻そうと取引きし始める。

 

第4段階:抑うつ

喪失を避けられないことが分かり、絶望し、無力感に苛まれ、うつ状態になる。

 

第5段階:受容

現実を静かに見つめることができる。

最終的に喪失を穏やかに受け入れる。

諦めの境地。

 

 

第1段階~第4段階が同時に起こることも、

第2段階→第1段階、第1段階→第3段階、第3段階→第1段階に戻ったりすることもあるそうです。

 

まさにその通りで、私もこのようなプロセスを辿ってきました。

 

初めての手術後、これは失敗なのでは?おかしいのでは?と感じつつも、いやいやそんなわけがない!となかなか認めることができませんでした。

 

そのため、鼻翼縮小の仕上がりが滅茶苦茶であったにも関わらず、その修正ではなく、鼻先が大きくて丸いのがおかしい原因なのだと思い、1ヶ月後に半ば勢いで鼻尖縮小の手術を受けました。今思えばパニック状態でした。

(…アホすぎて呆れますね。手術としては成功しましたが、将来的に問題が起こる可能性はゼロではないので、いつ発動するかわからない爆弾を抱えているようなものなので、後悔しかないです)

 

その後、初回手術の執刀医への怒り憎しみ恨みが止まりませんでした。

どんなに残虐非道な妄想を脳内で繰り広げても、怒りが収まることはありませんでした。

 

次に、この苦しみから逃れたい一心から、スピリチュアルのブログやYouTubeを見漁りました。また、修正手術を何としても成功させたくて、善行を積もうと出先で使用したトイレを掃除したり、1日に1000回「ありがとうございます」を言う取り組みをしたり。わざわざバードウォッチングの測定器を買って、カチカチカウントしながら「ありがとうございます、ありがとうございます…」とぶつぶつ唱えたりしていました…(恥)何かにすがっていないと正気でいられなくなりそうで、必死でした。

禊(みそぎ)なのか、自己懲罰なのか、自分でもよくわかりませんが、頭をバリカンで丸坊主にもしました。今思えば相当おかしい心理状態です。

 

そして修正手術が終わり、熟練の医師の技術を以ってしても、1度目の手術で滅茶苦茶になった鼻の不自然さを改善することはできなかったという現実に直面し、第4段階に入りました。

 

これ以上の修正は不可能(これ以上切ると鼻翼がなくなってしまいます)となり、手術前のようにマスクを外して外を歩いたり、人目を気にせずに外食をしたり、社会の中で人と交流することなど、これまでは当たり前にできていたことが全てできなくなったという事実を受け入れる覚悟を決めなければならない局面に立ち、これまでに経験したことのない絶望感に苛まれました。

 

何もやる気がなくなり、死ぬことばかり考えていました。

ストレス性胃腸炎にもなりました。

 

この状況を打破したくて、メンタルクリニックを受診したりもしました。

 

どんなに優しくてあたたかい言葉をかけられても癒されることはなく、この悲しみは、自分でしか癒せないのだと思いました。



第4段階の抑うつから第1段階の否認に戻り、また第2段階の怒り→第3段階の取引き→第4段階の抑うつへと、ぐるぐる無限ループを繰り返して来ました。


2年7ヶ月が経過して、今ようやく第5段階の受容に移行しかけているところです。


ですが、今はまだ世間の大半の人がマスクを着用しているので、私も普通に外出できていますが、半袖の季節になる頃にはほとんどの人がマスクを外していくと思いますので、また抑うつ状態に逆戻りすることでしょう…。


外に出られる顔を失うというのは、自分が半分死んだようなものなので、その喪失を乗り越えるのは容易ではありません。

何年もかけて一進一退を繰り返しながら乗り越えていくのだと思います。



最後に、私と同じような目に遭われた方へ。


今は、死ぬほど悲しくてみじめで苦しくて孤独で、1日でも早く死んで楽になりたいと思われているかもしれませんね。

私も早く死んでこの体から離脱したいです。


けれども、私は自殺はしません。

どんなにみじめでも、寿命まで生き抜きます。


今はこの絶望のどん底が一生続くように思えますが、必ずどこかのタイミングで第5段階の【受容】に行き着いて、心の平安が訪れる日が来ると、私は信じています。(何だか宗教じみた表現だな…)


辛くて苦しくてたまらない時は、この日本のどこかに同じ悩みを持つ同志がいることを、どうか思い出してみてくださいね。


今月13日からマスク着用ルールが緩和されて、ノーマスクの人も増えてきました。

 

私が最も恐れていた日がついに来てしまいました。

 

今はまだ花粉症であったり、様子見の段階のため、マスクを着用している人のほうが多いですが、夏が近づく頃には大半の人がマスクを外すのではないでしょうか。

 

マスクを手放せない自分にとって、本当の地獄が始まりました。

 

 

私は約2年半前に受けた鼻翼縮小(小鼻縮小)の手術が大失敗に終わり、その半年後に修正手術を受けて今に至ります。

 

過去に何度も書いていますように、初回の手術では小鼻の溝のカーブに沿うことなく、溝から4~5ミリも離れた位置で直線的に縫合されたため、段差のある極めて不自然な鼻になりました。

しかも左側を4ミリ、右側を5ミリと最大限度まで切除されています。

 

当然、私がこの位置でこの角度でこれだけの幅を切ってくださいと依頼したわけではありません。

 
 
以下、初回の手術から半年後の写真です。(修正手術の前日)
加工していないのでお見苦しいですが、鼻翼縮小(小鼻縮小)は技術や知識が伴っていない医師が手術をするとこのようになる可能性がありますので、それを知っていただきたくて、恥を承知で載せています。鼻の形の左右差は元からです。
 

 
 
 
 
このような状態にされると、いくら修正手術を多く手掛けて来た美容外科の権威が執刀しても、不自然さを払拭することはできません。
 
今の状態を載せるのはどうしても気が引けるためお見せできませんが、上の写真よりもマシにはなりましたが、段差はありますし、角度や照明によっては傷跡が目立ちますし、傷跡の横にしこりができており、色々と不自然ではあります。
仕上がりに不満はありますが、元がアレなのでできる事にも限度がありますから、修正医にはできる限りのことをしていただいたと思っているので、何の恨みもありません。
 
 
そんな訳なので、私は一生人前ではマスクを外すことができなくなりました。
 
そうなったのは、こんなふざけた手術をするような医師を選んだ私の責任です。
 
決してこの医師に強要された訳ではなく、自らの意思でお願いをしたのですから。
 
2020年の夏の終わり。
当時は冬が終わる頃にはマスク生活が終わるだろうと予想しており、それまでにこの醜い鼻を何とかしなければならない、ここでコンプレックスに打ち勝たなくてはいつまでも悩み続けることになるから、気が変わらないうちに手術をしてしまおう!
医療行為なのだから安心安全だ!色んな口コミでたくさんの人がここで手術して良かった、満足したと言っているのだからきっと大丈夫だ!と安直な考えで実行したのは、他の誰でもない私自身なのですから。
 
いい年をして愚かで軽率な自分。
 
仕方がなかったでは済まされません。
 
私は自分で自分の未来を破壊しました。
 
一生反省しなければなりません。
 
私がこの先生きていくために必要なのは、自分の愚かさを心の底から受け入れ、被害者意識を完全になくし、他人から「あの人、鼻に縫い目ある…」「うわ、整形失敗?!」「あんなに地味な人でも整形するんだww」「イタ、キモ」と思われても開き直れるくらい、プライドを捨てること。それしかないのだと思います。
 
それができない限り、生き地獄からは抜け出せないのかもしれません。
 

美容整形に失敗して辛いと嘆いても、

「自分が決めてやったことでしょ」

「こうなることも分かった上でやったんじゃないの?」

「自業自得」

「自己責任」

と言う人がいる。


それが多数派なのか少数派なのかは確かめようがないけれど。


ネットニュースの美容整形に関する記事のコメント欄には、上記のような否定的な言葉があふれている。


たしかに、自分が決めてやったことなのだから、いつまでも被害者ぶるのは格好悪いとは思う。


失敗されるかもしれない、失敗されたらどうすればいいのか、なんて考えもしなかった。医療行為だから安心安全だと信じていた。

失敗のことまで想像できていたら、手術なんて受けなかった。

その点においては本当に浅はかで愚かだった。


でも、自業自得とか自己責任という言葉は、人に言ってはいけないし、言う資格もないと思う。

そんなことは本人が一番分かっていることだし、これでもかというくらい、自分のことを責めている。


美容整形失敗で人前に出られない顔になるというのは、社会的に死んだも同然。

嫌なことは忘れろとよく言われているけれど、顔からはどうやっても逃げられないのだから、忘れようがない。

後悔と罪悪感は多分一生消えないだろう。

これから先何十年も、生き恥と心の痛みに耐え続けなければならない。

生き地獄とはこの事かと思う。


それに対して、世間の目は冷ややかだ。


一方で、病気や事故で顔面が変形した人には、世間は優しい。(一般的には)

例え事故がその人の過失であっても、「大変だったね」と同情してもらえる。(言わなければ分からないし)


美容整形に失敗すると、めちゃくちゃ生きづらくなる。

このブログにたどり着いた人には、絶対にこんな苦しい思いをしてほしくないので、思い留まってほしいと願わずにはいられない。