東郷平八郎は、目黒区青葉台(現在の西郷山公園)に館を所有していました。

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東郷平八郎は、明治・大正期の海軍軍人で、日清・日露両戦争で日本海軍を勝利に導いた名将です。日露戦争では連合艦隊司令長官として日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利し、世界を震撼させました。戦後には海軍軍令部長に転じ、元帥に昇進しています。東郷平八郎の逸話としては、次のようなものがあります。「ADMIRAL TOGO(東郷提督)」や「東洋のネルソン」などと呼ばれた日本人で初めてTIME誌の表紙を飾ったその性格から「沈黙の提督」とも呼ばれた若い頃は闊達・多弁で知られていたが、明治維新後の英国留学を機に慎重・寡黙を心がけるようになった渋谷と鹿児島、歴史のかかわりアドミラル・トウゴウとして世界中に知られる鹿児島生まれの東郷平八郎元帥である。 ... 目黒区青葉台にあった(現在の西郷山公園。館は今は愛知県の明治村に移されて ...でじたる渋谷TOKYO銅像マップ――番外編2 東郷平八郎 - 歴史群像幼名は仲五郎、元服後は平八郎実良と名乗り薩英戦争や戊辰戦争等に従軍。 若い頃は闊達・多弁で知られましたが、明治維新後の英国留学を機に多弁を憂慮する声を知り、慎重・寡黙を心がけるよう...歴史群像東郷平八郎の逸話/ホームメイト - 刀剣ワールド日露戦争終結後、世界中でその功績が讃えられた東郷平八郎は、「ADMIRAL TOGO(東郷提督)」や「東洋のネルソン」、またその性格から「沈黙の提督」などと称され、日本人で初めてT...刀剣ワールド東郷平八郎 - アジア歴史資料センター明治から昭和期の海軍軍人です。 明治36年(1903年)に連合艦隊司令長官となり、日露戦争では日本艦隊を指揮してロシア艦隊と戦いました。 戦後になると海軍軍令部長に転じ、元帥に昇進...アジア歴史資料センター第4章 日露戦争の軍人 | あの人の直筆東郷平八郎(とうごう へいはちろう) 1847-1934 日露戦争では、連合艦隊司令長官として日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利し、一躍名をあげた。 


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 渋谷と鹿児島――一見、何の関係もなさそうなこの2つの土地が、実は古くから強い結びつきがあったことはほとんど知られていない。アドミラル・トウゴウとして世界中に知られる鹿児島生まれの東郷平八郎元帥である。なぜ、渋谷区に神社があるのか?
 実は渋谷は東郷元帥の祖先の地なのだ。12世紀、今の渋谷一帯は相模国の豪族・渋谷氏が所領していた。ゆえに渋谷と呼ばれるようになったと伝えられる。ところがこの渋谷氏は、源頼朝が鎌倉幕府を開いたのち、源平合戦での功により、はるか薩摩の地に新たに所を得て、一族を挙げて移住するのである。落ち着いた先は現在の川内市あたりとされる。 薩摩での渋谷氏は、5つの家に分かれた。渋谷五族である。土地の名をとって、それぞれ高城氏、東郷氏、入来院氏、祁答院氏、鶴田氏を名乗った。このうちの東郷氏から700年後に出たのが、東郷平八郎なのである。だから渋谷は東郷元帥のルーツの地であり、没後、祖先の地に神社が建てられたのである。 ついでながら、広尾小学校の校長室には東郷元帥直筆の『自疆不息』の額が今も掛けられている。また、本町一丁目の『洗旗池』の記念碑の文字も東郷元帥の書である。 さて、鹿児島生まれで東郷元帥と並んで知られているのが陸軍の大山巌元帥である。大山元帥は渋谷・穏田に邸を構えていた。今は地名変更で神宮前五丁目となったが、現在も大山元帥の曾孫・大山格氏が住んでおられる。 徳富蘆花の小説『不如帰』のヒロイン浪子のモデルは大山元帥の長女・信子だとされるが、『不如帰』が発刊された明治33年、蘆花は原宿に住んでいた。蘆花は熊本の生まれだが、鹿児島と西郷隆盛を強く愛し、37歳の時、桜島に住んだ。
 大山巌はまた西郷隆盛の従兄弟にあたるが、西郷隆盛の弟で明治の功臣・西郷従道の住まいは南平台に近い目黒区青葉台にあった(現在の西郷山公園。館は今は愛知県の明治村に移されている)。従道の館には兄・隆盛や大山巌もしばしば逗留している。兄弟は館を出ると鶯谷町と桜丘町の境の道を抜け、渋谷を経て青山通りに出て、馬車で中央官庁に通った。当時、この道は「西郷さんの馬車道」と呼ばれていたという。 鹿児島出身の彫刻家で定展彫刻審査員の安藤照は大の犬好きで、昭和9年に忠犬ハチ公像を造っている。照は、渋谷区の住人であった。ハチ公が死んだのは翌10年だから、生前に造ったことになる。いかにイヌ好きだったか、判ろうというものだ。なお現在の渋谷駅前のハチ公像は、照の子息でやはり彫刻家・安藤士氏の作である。士氏は渋谷区代々木五丁目にご健在である。なお、毎年4月8日にはハチ公祭りが行われている。
 安藤照は昭和12年鹿児島の城山公園に軍服姿の西郷隆盛の銅像を建立している。明治31年(1898年)に建てられた東京上野の西郷さんの銅像に後れること、実に39年後のことであった。
 変わったところでは「天狗たばこ」で知られた明治のタバコ王・岩谷松平がいる。川内市の生まれで、明治10年に上京、渋谷区猿楽町に住み、家も工場も、さらに人力車、洋服に至るまで、すべて赤一色で染め上げて全都の話題をさらった。タバコが専売制となった後は、猿楽町の広大な土地で養豚場を営み、肉食による日本人の体格・体力の向上をPRした。松平の孫にあたる吉田次郎氏が「かつ吉」という店を渋谷警察署近くで経営していたと伝えられている。

「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」――桜島の古里温泉(鹿児島市古里町)に文学碑の建つ作家・林芙美子が渋谷道玄坂夜店を出したのは、大正12年のこと。
 「お上品な奥様が、猿股を20分も唸ってたったひとつ買って行った」出世作『放浪記』の中の一節である。渋谷出身で戦前、鹿児島県知事を務めたのが新居善太郎。名知事の評判が高かった。夫人・新居菊枝さんは代官山駅近くにご健在である。
 逆に鹿児島県指宿の出身で、広尾小学校第三代校長を大正10年から昭和20年まで四世紀半の長きにわたって努めたのが赤崎等である。
 氏は広尾小学校の教員すべてを鹿児島県出身者で固めた。その教育熱心ぶりは「教育の神様」とうたわれ、名校長としてその名は広尾小の名と共に全国に知らされた。 そして平成の現代。渋谷区長を努めているのは、渋谷生まれだが、鹿児島人の血を引く小倉基氏である。 さてこれからの渋谷と鹿児島。21世紀に向けて、更に新しい結びつきを強めてゆくことが期待されている。