戦争体験語り部/実業家・與田治郎右衛門
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『戦争体験語り部・実業家、與田治郎右衛門(襲名前:純次) 92歳』
取材・ご質問等、お問い合わせは【yoda1004@hotmail.co.jp】、またはFacebookメッセージまで宜しくお願いします。

【與田治郎右衛門とは?】
戦争体験語り部、実業家、元大使館職員。大正14年(1925年)、兵庫県城崎郡竹野村(現:兵庫県豊岡市竹野町)に生まれる。先祖は江戸時代初期から寛文12年(1672年)頃、寛保2年(1742年)頃から寛政8年(1796年)まで庄屋(江戸時代の村役人である地方三役の一つで村の首長)を務めており、北前船(江戸時代に日本海海運で活躍した北国廻船)の船主でもあった。寛文年間(1670年代)からは「元庄屋」という屋号で様々な商売を営んできた。
大日本帝国上海大使館事務所勤務の後、1945年、大日本帝国陸軍満洲独立工兵隊1893部隊に幹部候補生として現役入隊(甲種合格)。終戦直前、満州にソ連軍が侵攻し戦闘になり、所属部隊は、ソ連軍の戦車攻撃に対し、命をかけた肉薄攻撃作戦(黄色爆薬を抱えて蛸壺に潜り、戦車の下に飛び込む特攻)に出る。自身の蛸壺の方へ戦車は向かって来なかったが、近くの戦友たちが蛸壺から飛び出し自爆する光景、またその爆撃を受けながらも土煙の中から何事も無かったかのように出てきた戦車の様子は、今なお脳裏に鮮明に焼きついている。終戦後、朝鮮半島を南下敗走。20日間に及ぶのサバイバル生活を、カタツムリを食べて生き延びる。途中、部隊は、ソ連軍に囲まれ銃弾を浴び、隊員の半数が銃弾に倒れる。その後、ソ連に日本軍捕虜として連行され、約3年間の強制労働を強いられる(シベリア抑留)。監視の厳しい抑留生活の中、シラカバの木の皮でトランプを自作し、戦友たちと無事に帰国できるかを占った。このトランプは帰国時にソ連の検閲に引っかからなかったため、日本へ持ち帰ることができ、現存している。
1947年に解放され帰国。翌年、父・與田治郎右衛門(先代)と共に保険代理業を開業。その後、天然凍豆腐製造業、乾麺製造業、豆腐油揚製造業を開業し、1949年に凍豆腐製造業九鹿冷凍工場を設立開業。1955年4月、豆腐油揚製造用機器及び各種燃焼機器卸小売及び工事施工業者、元庄屋商店(現:株式会社元庄屋)を開業し社長に就任。
1991年2月、内閣総理大臣・海部俊樹より、シベリア抑留に対する慰藉の念として銀杯が授与される。
2017年4月、先代(父)まで十数代に渡り襲名されていた「與田治郎右衛門」を襲名。與田純次改め與田治郎右衛門となる(神戸家庭裁判所豊岡支部審判)。
近年、自らの戦争体験を、インターネットを通じて若い世代に伝える活動を行っている。過去にはシベリア抑留に関しての執筆をしており、また各種メディアから戦争体験に関する取材を受けている。
92歳になった2017年現在も、「生涯現役」をモットーに毎日働いている。健康の秘訣は就寝前・起床後に各30分かけて行う腹筋・背筋のストレッチ。

【戦争体験インタビュー映像 (みんなの戦争証言アーカイブス)】


↓略歴・メディア・関連書籍etc紹介↓
http://yodajunjiyodajirouemon.crayonsite.com/p/3/
  • 30Aug
    • 【記録】在上海大日本帝国大使館事務所(戦時中)に関する記録。

      【“大使館”勤務時代(戦時中)を思い出す。在上海大日本帝国大使館事務所に関する記録。】私、與田治郎右衛門(襲名前:與田純次)は、1945年に「大日本帝国陸軍満州独立工兵隊」に現役入隊するまで「在上海大日本帝国大使館事務所」の司政部行政科に1年半ほど勤務しておりました(1943年2月〜1944年10月)。今から14年前の2003年、78歳の時、私は大日本帝国上海大使館を訪ね、上海へ渡りました。当時の記憶を頼りに、また現地の人に聞き込みをし、大使館があった場所へ辿り着くことはできたのですが、建物は跡形もなく残っていおりませんでした。“東洋摩天楼”と称された高層ビル「ブロードウェイマンション」(1934年完成)と、鉄橋「外白渡橋」(1908年開通)は、当時と変わらぬ姿で残っており、60年ぶりに見ることができて感激したことを覚えております。92歳になる今年2017年、70年以上昔の記憶を頼りに、簡単なものではありますが、当時の大日本帝国上海大使館周辺の上海の地図を描いてみました。大日本帝国上海大使館は「虹口区(ホンキュウク)」にあり、呉淞路(ウースンロ)軌道電車の終点、北四川路・呉淞路の合流点の前に位置します(地図参照)。大使館の前には「上海陸戦隊本部」、近くに「上海神社」があったように記憶しております。「在上海日本国総領事館」も同時期にあり、私は大使館と総領事館を行き来して仕事をしていました。大使館の正確な住所は分かりませんが「魯迅公園(虹口公園)」(中華人民共和国上海市虹口区東江湾道146番地)の付近だと思われます。今年の2月に、東アジアの近現代史を研究されている、とある大学の先生から、在上海大日本帝国大使館事務所に関するご質問を頂いた事がきっかけで、地図を描きました。陸軍に入隊する以前の、70年以上も昔の記憶を思い出す良い機会となりました。有難う御座いました。㍿元庄屋 会長 / 戦争体験語り部與田治郎右衛門 (襲名前:與田純次) 92歳

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  • 19Aug
    • 【歴史】故郷・竹野町の"盆踊り大会"は昭和末期まで生家"元庄屋家"の前で開催されていた。

      【故郷・竹野町の“盆踊り大会”の思い出】その昔、故郷・竹野町の盆踊り大会は、私の生家である「元庄屋家」の前で行われておりました。竹野町上町の道路(通り)は、元庄屋家の前だけ少し広めに整備されております。昭和50年代頃までは竹野元庄屋家の前で行われていた盆踊り大会ですが、車社会になったということもあり、開催場所は小学校の方へ移されました。【2012年「元庄屋末廣会」與田純次 挨拶より】「私の父、與田治郎右衛門(先代)から度々聞かされたことを思い出しています。庄屋の前を通る時は、編笠を取って頭を下げて御礼をして通るのが習わしだった。盆踊りは庄屋の前でないと踊ってはいけない、という事で、自動車社会になるまで(昭和50年〜60年頃まで)は現在の竹野町上町の元庄屋の前で楽しい盆踊りがはずんだものです。昔のいつ頃の話か判りませんが、竹野は海賊村と言われ、猫崎半島の先端に見張り番を出し獲物が通ると、その船を襲い財宝を奪って生活していたとも言われていた頃。播州から商人が来て、色々な物を買っていた。その商人は読み書きそろばんの達者な立派な人だったので、播州に帰るため、鋳物師戻し峠まで帰りかけていたその商人を、竹野の庄屋になってくれと頼み込んで、連れ戻し、竹野で一番良い土地を提供するという約束も出来、現在の元庄屋の土地に住んで頂いたのが元庄屋の先祖だと言い伝えられた事もありました。」(続く)

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  • 08Aug
    • 【歴史】屋号「元庄屋」の由来と、"與田治郎右衛門"の襲名について。

      私の生家は江戸時代初期から寛政8年(1796年)まで、代々、但馬国の竹野村(現:豊岡市竹野町)の庄屋(江戸時代の村役人である地方三役)を務めていました。庄屋は「苗字帯刀」が許されていたため、「與田」姓は数百年前から存在していました。(嘉永時代生まれの祖父と、安政時代生まれの祖母)私の幼少時代には、江戸時代からある蔵の中に、"出石城城主"にお米を渡していたという「借用書」や、「刀(脇差)」等、庄屋ゆかりの品々が残っておりました。また、與田家では代々、"治郎右衛門"(じろうえもん)という名が襲名されてきました。(私、與田純次は、2017年4月に父の代まで十数代に渡り襲名されてきた「與田治郎右衛門」を襲名いたしました。)昔、先代から聞いた話によりますと、寛政8年(1796年)に竹野の庄屋が隣家の住吉屋(御用地館)さんに移って以降、(竹野村には"與田"という姓が他にも何軒かあるため分かりやすいよう区別するために)村民の方々が「元庄屋の與田さん」と呼ぶようになったそうです。その時期から「元庄屋」という屋号を名乗り、現在に至るまで、様々な商売を営んできました。数百年続く「元庄屋」という屋号と、「治郎右衛門」という名前を、今後も大切にしていきたです。

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  • 07Aug
    • 【新聞掲載】豊岡市竹野町のシンボル「元庄屋の松」と與田家。與田治郎右衛門(寛政時代)が植えた松。

      かつて、地元竹野で「元庄屋の松」と呼ばれ住民たちから愛されていた樹齢200年以上の松の木が元庄屋家(與田家)の敷地内にあった。松の根のもとに建てられている石碑には1800年ごろ(寛政年間)に與田治郎右衛門(数代前)が植えられたという記述が残されている。この松の最たる特徴は軒先で伸びる長い枝であり、高さは約10mだが、幹の中ごろから伸びるその枝は15m以上あった(その長さは屋敷の一階の屋根を通り過ごし家の横にある路地を越えていた)。江戸時代の測量家・伊能忠敬(1745年〜1818年)が全国測量で竹野村を訪れた際、元庄屋家の隣家である、住吉屋(御用地館)さんを宿にしており、おそらく伊能忠敬の一団もこの松の木を見ていると思われる。【動画】その姿からは力強い生命力を感じることができ、長年、町の"シンボル"として住民らから親しまれてきた。http://www.eonet.ne.jp/~tamurakoubou/watercolor.htm("水彩スケッチ画廊 竹野 豊岡 但馬"様より画像を拝借)しかし、惜しまれながらも2012年(平成24年)に害虫被害により伐採されてしまう。(生まれた時から見慣れ、共に成長してきた松の切られゆく姿に與田純次、何を思う。)伐採が決まってからは別れを惜しむように連日近隣の人々が軒先を訪れた。【神戸新聞(但馬欄)掲載「樹齢200年以上、町のシンボル、害虫被害 松伐採へ」(2012.9/27)】

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  • 03Aug
  • 30Jul
    • 【挨拶】元庄屋末廣会・與田純次(91歳)「與田治郎右衛門" 襲名披露」「妻への想い」他

      【"元庄屋末廣会"開催】父・與田治郎右衛門(先代)、母・與田よし、の子供を第一世代とし、その子供達(第二世代)が中目心となって元庄屋一族が集い親睦を深める「元庄屋末廣会」。4年に1回のペースで開催しております。前開催より人数が少ないですが、気心知れた親族との会話、40年前の「第1回・元庄屋末廣会」(1976年)の写真スライドショー鑑賞や、ビンゴゲームなど、感動あり笑いありのあっという間の3時間でした。【元庄屋末廣会会長與田純次挨拶(画像クリックで再生)】長老、與田純次(91歳)、末廣会を開催できた喜び、近年多くなったメディアからの戦争体験の取材について、父の代まで10数代に渡り襲名されてきた「與田治郎右衛門」襲名披露など、末廣会会長として挨拶をさせて頂きました。次回は東京オリンピックが開催される2020年に会を催す予定です。その時、與田純次、95歳。次回も参加出来るよう健康に留意します。第1回「元庄屋末廣会」(1976年)前回の「元庄屋末廣会」(2012年)

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  • 07Jul
    • 【襲名】十数代に渡り襲名されてきた「與田"治郎右衛門"」を襲名する運びとなりました。

      【襲名】歴代『與田治郎右衛門』與田家では「與田“治郎右衛門”」という名が、十数代に渡り襲名されてきました。先々代までは写真が残っております。“嘉永”時代生まれの祖父(先々代)。“明治”時代生まれの父(先代)。そして“大正”時代生まれの私・與田純次。先祖は正徳時代前後〜寛政8年(1796年)頃まで庄屋(江戸時代の村役人である地方三役の一つ)を務めており、寛政8年以降は「元庄屋」という屋号で様々な商売を営んできました。近年になって、数百年続いている「元庄屋」という屋号と「治郎右衛門」という名を残していきたいと感じるようになり、襲名をしようと考え始めました。そして、2017年4月に「神戸家庭裁判所」から許可が降り、父の代まで襲名されていた「與田治郎右衛門」を襲名する運びとなりました。純次改め、與田治郎右衛門を今後とも宜しくお願い致します。【與田治郎右衛門 HP】http://yodajunjiyodajirouemon.crayonsite.com

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  • 01Jul
    • 【記録】先祖と「北前船」(3代前の與田治郎右衛門の北前船"売買商品の記録")

      ①【文化〜明治年間 “竹野北前千石船”】②【浜田・外ノ浦港客船帳(慶応4年(1868)以降、浜田市外ノ浦に入港した竹野の船での売買商品の記録)】上記資料にご先祖様の名前がありました。●船主:與田治郎右衛門・多三郎●日時:明治19年(1886年)11月21日●船名:禧丸(サイハイ丸)●航路:下り●商品:こんぶ売、焼もの買、二八日出船今から約130年前、ご先祖様が北前船に昆布を売って、焼物を購入したという記録。130年前のご先祖様の行動が少し分かり嬉しいです。(北前船イメージ。北前館で撮影。)

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  • 23May
    • 【新聞掲載】與田治郎右衛門の若かりし頃の活動。我が青春。故郷豊岡市竹野町の町おこし!

      若かりし頃の活動。我が青春時代。昭和30年(1955年)6月2日発行の「読売新聞(但馬)」『夏に備えの海水浴場プラン、浜辺一帯を遊園地化(竹野浜)』與田治郎右衛門(襲名前:純次)、当時29歳。シベリア抑留から解放されて約6年後、この当時は同世代の仲間たちと故郷・竹野村(現:兵庫県豊岡市)の地域おこしのため、様々な催しを企画/運営しておりました。竹野浜の遊園地化、草原を走る草スキー、バンガロー経営、浜茶屋/喫茶店経営、都会からモデルをよんで撮影会etc忙しくも楽しい日々でした。1955年4月、竹野町商工会副会長 就任同年同月、竹野村観光協会企画宣伝部長 就任

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  • 16Mar
  • 07Jan
    • 【雑誌掲載】月刊誌『致知』(2月号)に與田治郎右衛門の戦争証言/経営理念に関する記事が掲載。

      【與田治郎右衛門(91歳) “メディア掲載情報”】2017年1月1日発行の月刊誌『致知』2月号(致知出版社)の「生涯現役」に、與田治郎右衛門(襲名前:與田純次) 91歳の戦争証言・経営理念に関するインタビュー記事が掲載されました。「大日本帝国上海大使館勤務から大日本帝国陸軍工兵隊入隊、ソ連軍との戦闘・命懸けの蛸壺攻撃作戦、20日間に及ぶ密林でのサバイバル生活、3年間のシベリア抑留、帰国後、起業してからの苦労話(それを乗り越えることが出来た心の持ちよう)etc」をお話しさせて頂きました。ご一読頂けますと幸いで御座います。“致知出版社”様、この度は素敵な機会を与えてくださり有難う御座いました。また今年度中に「東洋経済新報社」から発売予定の“とある書籍”に私の戦争体験談が掲載されます。詳細が分かり次第追って報告致します。2017年も無理のない程度に、語り部活動を継続して参ります。

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  • 26Dec
    • 【対談】與田治郎右衛門(91歳) × 日本近現代史研究者・久野潤氏(名城大学講師)

      【與田治郎右衛門(91歳) × 久野潤氏(名城大学講師)】近年、戦争体験に関する取材を受ける機会が増えてまいりました。今月は、日本近現代史研究者で、現在、名城大学で教鞭をとられている“久野潤”氏が、私の戦争証言取材のため、弊社(元庄屋)までお越しになられました。久野氏はこれまでに350名以上の戦争経験者を取材されてきたそうです。私自身、話をすることにより70年以上昔の記憶の整理をすることができました。久野先生、有難う御座いました。PS後日、久野氏が講師をされている歴史勉強塾「れきべん」で私、與田治郎右衛門(襲名前:純次)が紹介されました。

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  • 01Mar
  • 05Jan
    • 【新聞掲載】"産経新聞"「極寒のシベリア抑留の最中に作り上げた白樺のトランプにまつわるお話」

      【"産経新聞"に掲載】「シベリアの思い出いっぱい。シラカバのトランプ見つかる。“帰れる、帰れない・・・”、占った男たちの手あかも。」(但丹ニュース、1976年1月19日より)戦争体験語り部、與田治郎右衛門(92歳)「極寒の"シベリア抑留"の最中に作り上げた"白樺のトランプ"にまつわるお話」(動画)(↑クリックして動画を再生)【全文】「シベリアの思い出いっぱい。シラカバのトランプ見つかる。“帰れる、帰れない・・・”、占った男たちの手あかも。」(産経新聞・但丹ニュース、1976年1月19日)シベリアはいま氷点下四〇度の極寒。ちょうど三十年前、原野に点在する収容所におびただしい日本人捕虜が囲われ、飢えと労働に耐えていた。厳しい作業のあい間をぬってシラカバの皮をはぎ、エンピツをなめつつトランプをつくった捕虜がいる。「ヤポンスキー・ダモイ・ダモイ(日本に帰れるぞ)」やソ連兵の言葉に何度となく振り回された捕虜たちは、このトランプに群がり「帰れる、帰れない・・・」と占いながらつぎつぎと死んでいった。復員後のどさくさで、なくしたはずのトランプがこのほどひょっこり作者のもとに。「トランプをいま一度囲もう」作者は、四散した仲間への呼びかけをはじめた。豊岡市幸町、会社社長、与田純次さん(五一)がその人。カードは実母、城崎郡竹野町竹野、与田よしさん(七七)が屋内でみつけて届けた。ジョーカーを入れて五十三枚。このうちスペードのキングをなくし五十二枚がそっくり残っている。タテ五センチ、ヨコ三センチ、乾燥してヒズミが出ているが、絵も数字もはっきり。ソ連国境チャムスの独立工兵隊経理幹部候補生だった与田さん。二十年八月八日、兵舎上空にソ連機が襲来、与田さんの〝シベリア物語〟がはじまる。まさかと思ったソ連参戦、低空飛行で陣地を偵察したソ連機は北へ去った。予想される戦車攻撃。工兵隊たちは工場マイトを抱えてタコツボに入り、敵戦車を待つ。肉薄攻撃失敗。牡丹江向け退去命令。与田さんは仲間三十人とともに徒歩で南下、途中満人地区へ食糧確保に向かい、ソ連兵の機銃掃射を受けた。生き残ったのは七人。一人一日三十個のカタツムリを食べながら原始林を放浪。九月一日、ダイバコウ近くの平地て日本兵を見、終戦を知る。ソ連兵に武装解除され、シベリア・チョーブローゼ送り。そこはラーゲリ(収容所)だった。小便が飛まつのまま凍りつく原野で五百人の仲間とともに強制労働、二十一年冬、凍傷で右手中指を切断し病院へ、戦友・広田要氏(故人・鳥取駅助役)と背中合わせに寝る。故郷の思い出話をしているうち、いつの間にか広田氏は死んでいた。栄養失調と寒さ。仲間の半数は倒れた。その年九月、約五〇キロ離れたベラカンのラーゲリへ。シラミとりと演芸会ぐらいの話。収容所の楽しみは少なく、ふとトランプを思いたった。シラカバの倒木の皮を厚さ三ミリ程度にはぎ、うる覚えのキングやジャックを描いた。ジョーカーは、鬼のような収容所長、ナチヤーニックの似顔絵入り。ババ抜き、七ならべなど、単純なゲームの中に〝笑い〟もあった。ひょうきん者のソ連兵・イワン上等兵が仲間入りすることも。半面、夜は「旅のツバメはいつまた帰る せめてわたしもふるさとに・・・」、抑留者がつくった悲しい歌が流れ、トランプは「帰れる、帰れない・・・」と占う男たちの手あかにまみれた。「ダモイ(帰れる)」二十二年八月、与田さんはまさかと疑った。列車の中でハバロフスクという地名を聞いたとき〝日本〟が近いことを感じた。身体検査は車中でも再三行われ、文字を記したものはすべて没収。しかも、ボロ切れに包んだトランプは取り上げられなかった。検査のソ連兵は〝ニヤッ〟と笑うだけ「きっと、芸術品と思ったんだよ」ーと、与田さんは振り返る。二十二年四月二十日、舞鶴港着。竹野町の自宅から届いたトランプには青春があり、死んだ仲間の思い出があった。いま、観光で外国を旅行することはあるが、シベリアには二度といきたくないーという「トランプの世界はもうない、仲間が生き残っておれば、便りがほしい」過去を語る与田さんの目はまっ赤だった。

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  • 19Nov
    • 【自己紹介】戦争体験語り部/実業家、與田治郎右衛門(襲名前:與田純次)について。

      戦争体験語り部・実業家與田治郎右衛門(襲名前:純次) 92歳(2017年現在)戦争体験語り部、実業家、元大使館職員。1925年(大正14年)、兵庫県城崎郡竹野村(現:兵庫県豊岡市竹野町)に生まれる。先祖は江戸時代初期から寛文12年(1672年)頃、寛保2年(1742年)頃から寛政8年(1796年)まで庄屋(江戸時代の村役人である地方三役の一つで村の首長)を務めており、北前船(江戸時代に日本海海運で活躍した北国廻船)の船主でもあった。寛文年間(1670年代)からは「元庄屋」という屋号で様々な商売を営んできた。大日本帝国上海大使館事務所勤務の後、1945年(昭和20年)、大日本帝国陸軍満洲独立工兵隊1893部隊に幹部候補生として現役入隊(甲種合格)。終戦直前、満州にソ連軍が侵攻し戦闘になる。所属部隊は、ソ連軍の戦車攻撃に対し、命をかけた肉薄攻撃作戦(蛸壺に潜み、ソ連軍戦車の下に飛び込む)に出る。自身の蛸壺の近くを戦車は通過しなかったが、近くの戦友たちが蛸壺から飛び出し自爆する光景が今なお脳裏に焼きついている。終戦後、朝鮮半島を南下敗走。20日間に及ぶのサバイバル生活を、カタツムリ等を食べて生き延びる。途中、部隊は、ソ連軍に囲まれ銃弾を浴び、隊員の半数が銃弾に倒れる。その後、ソ連に日本軍捕虜として連行され、約3年間の強制労働を強いられる(シベリア抑留)。1947年に解放され帰国。翌年、父・與田治郎右衛門(先代)と共に保険代理業を開業。その後、天然凍豆腐製造業、乾麺製造業、豆腐油揚製造業を開業し、1949年に凍豆腐製造業九鹿冷凍工場を設立開業。1955年4月、豆腐油揚製造用機器及び各種燃焼機器卸小売及び工事施工業者、元庄屋商店(現:株式会社元庄屋)を開業し社長に就任。2017年4月、先代(父)まで十数代に渡り襲名されていた「治郎右衛門」を襲名。純次改め與田治郎右衛門となる(神戸家庭裁判所豊岡支部審判)。近年、自らの戦争体験を、インターネットを通じて若い世代に伝える活動を行っている。過去にはシベリア抑留に関しての執筆をしており、また各種メディアから戦争体験に関する取材を受けている。92歳になった2017年現在も、「生涯現役」をモットーに毎日働いている。健康の秘訣は就寝前・起床後に各30分かけて行う腹筋・背筋のストレッチ。【略歴】1925年11月、兵庫県城崎郡竹野村(現:兵庫県豊岡市)で、商売人の父・與田治郎右衛門(先代)と母・よしのもとに生まれる。生家は江戸時代まで竹野村の庄屋であった。1938年3月、兵庫県立城崎郡竹野村立竹野尋常高等小学校 卒業1942年12月、兵庫県立豊岡商業学校 卒業 (戦時体制により繰り上げ卒業)1943年2月、大日本帝国上海大使館事務所 勤務1945年2月、大日本帝国陸軍満洲独立工兵隊1893部隊 現役入隊1945年8月、ソ連に日本軍捕虜としてシベリアに連行される。1947年4月、シベリア抑留より帰還。1948年4月、兵庫県城崎郡竹野村にて保険代理業 開業1948年4月、兵庫県多可郡野間谷村にて天然凍豆腐製造業 開業1949年6月、兵庫県養父郡八鹿町にて乾麺製造業 開業1949年12月、兵庫県養父郡八鹿町にて凍豆腐製造業九鹿冷凍工場 設立開業1951年10月、兵庫県城崎郡竹野村にて豆腐油揚製造業 開業1952年7月、兵庫県城崎郡竹野村にて飲食業(喫茶店、浜茶屋etc) 開業1955年4月、兵庫県豊岡市寿通にて元庄屋商店豊岡営業所を開業し、豆腐油揚製造用機器及び各種燃焼機器卸小売及び工事施工 開業1955年4月、竹野町商工会副会長 就任1955年4月、竹野村観光協会企画宣伝部長 就任1955年7月、兵庫県城崎郡竹野村にてバンガロー(コテージ) 開業1960年4月、北但信用組合理事 就任1975年3月、兵庫県豊岡市中陰にて兵庫コロナ販売(住宅設備機器卸売) 開業1988年11月、兵庫県豊岡市幸町にて中島水道工業所 設立開業1991年2月、海部俊樹(第76/77代)内閣総理大臣より、シベリア抑留に対する慰藉の念として賞状と銀杯が授与される。1998年7月、全国強制抑留者協会主催のシベリア慰霊訪問団に参加。自身が収容されていたラーゲリ跡地にて弔辞を述べる。2017年4月、「與田治郎右衛門」襲名【各種メディア】●読売新聞(1955年6月2日、但馬)「夏に備えの海水浴場プラン、浜辺一帯を遊園地化」●産經新聞 (1976年1月19日、但丹ニュース)「シベリアの思い出いっぱい。シラカバのトランプ見つかる。」●神戸新聞 (1998年7月9日、但馬)「半世紀ぶりにシベリアへ。抑留体験した豊岡市の3人。」●神戸新聞 (2016年8月16日、但馬)「シベリアの収容所、シラカバの皮で手作り。トランプに苦難の記憶。」●神戸新聞NEXT (2016年8月15日)「祖父の戦争体験を動画で発信。孫が帰省時に撮影。」●神戸新聞NEXT (2016年8月16日)「トランプに残る戦争記憶。シベリア抑留経験の男性。」●読売新聞 (2017年3月19日、但馬)「祖父と戦争 後世へ動画、豊岡出身の兄弟撮影」●北近畿経済新聞 (2017年5月1日)「91歳"生涯現役"、戦争体験の語り部も」●みんなの戦争証言アーカイブス (2016年)「與田純次インタビュー:冬は零下40度です。部屋の中にいても死んだら凍って棒状になるんです。」●『致知』(2017年2月号、致知出版社)「生涯現役」●関西電力 (2008年、でんかライフ.com)「灯油ボイラー2万台を手がけた給油機器の老舗、オール電化で雪国豊岡の冬を快適に!」●『にふょん』(2017年5月号、大和ハウス工業株式会社オーナー会報誌)「三方よし"生涯現役"」●NHK杯全国高校放送コンテスト(2017年)「兵庫県立小野高等学校出品作品(仮)」etc【受賞歴】海部俊樹(第76/77代)内閣総理大臣より、シベリア抑留に対する慰藉の念として賞状と銀杯が授与される。(その後も福田康夫首相、菅直人首相から賞状が授与されている。)【関連書籍】『戦争の真実』(インタビュー掲載) (2017年、丹羽宇一郎 著 / 東洋経済新報社)『シベリア慰霊訪問記』(寄稿) (1997年、全国強制抑留者協会 編)『この記録わすれまじ』(所属隊員欄に名前掲載) (1979年、独工十八柳生会 編)『致知(2017年2月号)』(インタビュー掲載) (2017年、致知出版社) etc【免許・資格】液化石油ガス設備士ボイラー据付け工事作業主任者ガス溶接技能講習終了証危険物取扱主任者 乙種4類自動車運転免許 普通第1種剣道二段 (大日本武徳會)銃剣術初段 (大日本武徳會)【各種リンク】●YouTubeチャンネルhttps://www.youtube.com/channel/UCC7yOrEOFW1mivAbP2c_0dQ●Facebookページhttps://www.facebook.com/yodajirouemonn/●與田治郎右衛門記念館http://yodajunjiyodajirouemon.crayonsite.com

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      テーマ:

プロフィール

與田治郎右衛門 (15代目:襲名)

性別:
男性
誕生日:
1925年11月19日
自己紹介:
戦争体験語り部・実業家・元大使館員 與田治郎右衛門(襲名前:與田純次) 93歳(2018年現在) ...

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