私が、初めて免許を取得したのが、高校1年、16歳の時でした。
定時制に行った同級生がバイクに乗っているのを見て、自分も乗りたいと思ったからです。
私の高校時代、3ナイ運動真っ盛り。
しかも、個人情報保護法も無く、情報が駄々洩れしてた時代。
はい、ご多分に漏れず、免許取得したことが学校にバレ、学校に免許証を取り上げられる始末。
私の親父は、親父自身バイクに乗っていたこともあり、高校三年の一学期の始まる頃、家業の手伝いをさせるためって口実で、免許証を返してもらいました。
その代わり、「事故・違反があった場合、速やかに学校に免許証を預ける」と言うことが条件でした。
私は、RZ50初期型を新車で購入し、MTの原付で走り回りました。
親父とプチツーリングに行った事もあります。
中学の同級生とも、原付ツーリングを楽しんでいました。
高校三年の三学期になると、普通免許の取得が学校も認めており、私も普通免許を取得しました。
その後の進路として、私は東京の専門学校に行きましたが、バイクを持って来なかったので、段々ストレスが溜まり、イライラする日が多くなっていました。
ある日、学校の先生と喧嘩になり、「出てけ!」と言われたので、私は素直に教室を出ました。
それから、ほとんど学校に行かなくなり、毎日パチンコ屋に入り浸り。
住んでいたのが、横浜の田舎の学生寮でした。
なので、朝、学校へ行くフリをして、パチンコ屋に出勤してましたよ。
まぁ、朝から打っているんで、ほとんど負けはありませんでした(笑)
そんな生活が、ずっと続く訳がありません。
休学と言う形を取り、帰郷しました。
帰郷後は、家業に従事しました。
そして、やっと中型二輪を取りに行ける事になり、ホンダライディングスクールレインボーに入校。
一週間で中型二輪を取得。
VF400Fを乗り回す日々が始まります。
ちなみに、自分専用の四輪車は無く、どこかに行くのは、いつもVF400Fでした。
VF400Fとの別れは、突然でした。
雨の日の夜、交差点を左折したところで、ハイサイドを食らったのでした。
路面が濡れていたので、私はバイクの前に飛ばされたにも関わらず、路面を滑って行くだけで、全く怪我はありませんでした。
その代わりなのか、わかりませんが、火花を散らしながら、私の方に向かってくるVF400Fが、縁石に激突!
フレームも曲がり、一発廃車コースでした。
その後、バイク屋の勧めもあり、SRX-4YSPエディションに乗りました。
このバイクで、シングルの魅力にハマったのかもしれません。
しかし、ハイパワーマシンから非力なマシンに乗り換えた為、段々と物足りなさを感じ、限定解除を決意させたバイクでもありました。
当時の限定解除の事前審査には、超難関のGT750砂詰めタンクの45°と言うものがあり、皆ここで落ちてしまうのです。
ですが、公認校卒ならば、事前審査免除と言う嬉しい事もありました。
なので、早速、レインボーライディングスクールに入校。
CB750Fでの厳しくも楽しい教習を受けたのでした。
レインボーを卒業後、事前審査免除の証書を持って、試験場に殴り込みです。
初回、なかなか上手く走れたと思っていたのですが、5点足らずに不合格!
それは、最後にトラップが仕掛けられていて、最後は「ポールに合わせて停まる」とあるんですが、ポールの手前に停止線が引いてあり、つい癖で、停止線で停まってしまったのでした。
試験後の講評で、試験官の方が言ってました。
「おっ、こいつは上手いな、合格だな。って思っていたら、最後の最後でポールに合わせて停まらなかったヤツがいる。惜しかったな~。最後でマイナス5点で不合格だったよ。」
間違いなく、私の事だと思いました。
だって、停止線で停めた記憶があるんですから。
気を取り直して、2回目。
法規走行は、自己採点で減点無し。
課題走行は、一本橋以外は自己採点減点無し。
一本橋は、乗った瞬間にハンドルが振れ出すという事態が起き、橋の半分位行った所で、「落ちて一発中止より、早くて減点される方がマシ」と判断して、一気に渡り切りました。
いよいよ合否発表の時、「一本橋以外は完璧に走れた。これで合格しなかったら、もう限定解除は諦めよう」と思っていました。
自分の番号が点灯しました。
合格です!
その後、合格者だけの講評があり、免許証の裏に「限定解除」のハンコをもらいました。
帰り道、そのままバイク屋に行き、SRX-6を発注しました。
長くなるので続きます。