2023年 3月 11日(土)


​3.11

​みなさんこんにちは😃
だんご職人🍡です。

今日は日本人が忘れてはいけない日のうちのひとつですね。
12年前。
うちの長男Kはその数日前、妻の実家の宮城県北部で産まれました。
そして、12日が退院予定日でした。
そして11日。
妻は妻の母が病院に来てくれたので、Kを託して出産後初めてお風呂に入ったそうです。
その後部屋に戻ってベッドに入ったところで地震が。
あの地震で最も揺れたところに近かったので、その揺れたるや凄まじかったそうです。

病院も産婦人科があった病棟は水道管などが破断して1階が水浸しになり使えなくなりました。
内陸なため津波被害はなかったですが、それでも倒壊した家屋が相当ありました。
妻たちは無事だった新棟のロビーで身を寄せ合って過ごしたそうです。

また、妻の父は沿岸部の高校の教師をしており、高校自体は高台にあり無事だったものの、なんとか家に帰る途中かなり悲惨な光景を目にしたようです。
そして残念ながら教え子の中にも犠牲者はいたそうです。

その後、自宅は家具はめちゃくちゃであったものの、建物自体は大丈夫だったため、片付けをして、退院した妻とKも生活できました。
電気もガスもなかったけど、アウトドア好きな一家なので、炭火をおこして調理してました。
お七夜はろうそくの灯りの中妻の一家でやってくれました。

翌週末からは毎週私は当時住んでた東京から宮城まで行きました。最初は東北道も通れなかったので羽田から山形空港へ臨時便で飛び、山形空港から仙台までは臨時バス、その後は車で迎えに来てもらいました。
バックパックに山のように食材を詰めて向かいました。
その翌週には東北道が開通し、毎週末車で通いました。

4月には東京都からの要請で陸前高田へ派遣されました。誰が行く?となったのですが、妻子を東北の皆さんが助けてくれているので、今度は私が多少なりとも助けになりたいと立候補しました。

都庁から貸切バスで一関へ。
一関インターそばのビジネスホテルを都が貸し切っており、そこを拠点に各地へ派遣されてました。私は陸前高田へ。

最初に陸前高田へ行った時、それまではそれほど変わった景色ではなかったのが、あるところから先が破壊し尽くされていました。
あの衝撃は忘れられません。
がれきの撤去はかなり進んでいたので、かなり内陸から海まで見渡せました。その間の一切がなくなっていました。
派遣中知り合った県立高田病院の院長先生から、許可するので一度高田病院を見て行ってくれと言われて時間ができた時に見に行かせていただきました。
1階や2階はそこがなんだったのがわからない状況。
3階はかろうじて病院だったんだろうという感じでした。
4階はベッドも残ってましたが、3階、4階の窓にはまだ高田松原の松の大木が突き刺さったままでした。
屋上には寒空の中皆さん避難してたんでしょう。簡易トイレやストレッチャーが置いてありました。
あの日、凄まじい光景の中必死に命を繋ぐため努力された県立高田病院の先生、看護師の皆さん、職員の皆さんを思うと自然と涙が溢れました。

あれから12年、日本国内では新潟長野、北海道、熊本など大きな地震被害は何度もあります。
そして、これからも。
日本だけではありません、台湾やハイチ、トルコ、シリアなど大きな被害がありました。
これらは忘れた頃にやってきます。

でも、あの時ほど日本人であることを誇りに思ったことはありません。
略奪も暴動もなく、みんな譲り合い、助け合い。
福島では自らの命の危機にありながらも原発事故を最小限にするために必死に戦った方。
救助や復旧のため寝る間も惜しんで必死に活動した警察や消防、自衛隊の方。

きっとKには一生東日本大震災がついて回るでしょう。
あの時の赤ん坊が小学校卒業です。

あの震災で亡くなられた全ての方、その御遺族に哀悼の意を表します。合掌。

だんご職人