三島由紀夫は小説以外にも演劇、戯曲、現代劇、映画そして歌舞伎にも造詣深く

しかも現代人では古典歌舞伎の脚本を書くこと自体言葉遣い、言い回しから

して不可能と云われていたものを三島は最初の歌舞伎戯曲である“地獄変”、

その後“鰯売恋曳網”“熊野”“芙蓉露大内実記”“むすめこのみ帯取池”

“椿説弓張月”等を執筆、また新派と中村歌右衛門の為に“朝の躑躅”と云う

作品も書いている。

 

三島は幼児期からお婆さん子で、初めて歌舞伎を観にいったのは13歳の時、

泉鏡花等愛読していた文学婆さんと云われていた夏さん(父方祖母)に生まれて

初めて歌舞伎座に連れられて「仮名手本忠臣蔵」を観に行き魅せられ其れ以来

歌舞伎にも傾倒して行くのだ。何れにせよ文学素養面で目覚めて行く素地を

作った一つに三島幼少時からのこの夏さんの影響が強いのだ、三島が小学校に

入学したころから夏さんは公ちゃん(本名公威)は私が育てると主張し、三島に

対して“公ちゃん、読書をしなさい、特に古典を読みなさい、そして沢山作文を

しなさい”と云われたと三島自身が後に書いている。

 

そして三島は17歳の時から“平岡公威劇評集”として歌舞伎を含め演劇を観に行った

際には自身のノートに感想文などを書き留めているのだ、それを編集し1991

中央公論社から出版されたのが「芝居日記」です。

 

三島は未だ六代目中村歌右衛門が芝翫と呼ばれていた頃から贔屓となりその

殆どの戯曲は中村歌右衛門を想定して書いたと云われている。

そして昭和34年に写真集“六世中村歌右衛門”が三島由紀夫編として出版されて

いることからも三島の贔屓振りが大いに感じられる。三島の自死後に歌右衛門自身

が“三島さんの死は歌舞伎界にとっても大きな損失であり兎に角三島さんは27歳の

若さで地獄変を書いた時から既に歌舞伎の様式美つまり、下座音楽や竹本浄瑠璃の

入り方など全てに精通していたのにも驚かされた”と語っているのだ。

要するに歌右衛門の話では江戸歌舞伎に並ぶように既に「三島歌舞伎」が出来上

がっていたということなのだ。

 

追ってまた私淑する三島由紀夫に就いて書いてみたいと思います。