4月2日(火)京都東山訪問記、3件目は圓徳院えんとくいん。北政所ねね(1549~1624)様終焉の地です。門前の案内板に次のような説明がありました。

 

 

『慶長10年(1605)、北政所ねねが亡き秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住んだのが圓徳院の始まり。ねねは77歳で没するまでの19年間をこの地で過ごしました。』

 

 

『そのねねを支えていたのが兄の木下家定とその次男の利房です。寛永9年(1633)利房の手により高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされました。』

 

 

圓徳院は木下家歴代藩士の墓が置かれ、木下家の屋敷となっていたため、正門は長屋門の形態がとられています。

 

 

玄関口に秀吉好みの手水鉢。秀吉が今川義元の親戚にあたる西尾家に世話になったお礼として贈ったもので、後に西尾家から寄贈されたそう。

 

 

玄関で靴を脱ぎ、方丈に入りました。

 

 

方丈南庭は北政所ねね様400年遠忌特別誂えの庭です。

 

 

北山浩士氏の作庭で、過去世・現世・来世を表す仏教世界に、ねね様が願われた慈愛が広がる世界観を表現したといいます。

 

 

特別イベントが盛りだくさんで、堂内では、石庭を作る枯山水体験や写経をしている人もいました。

 

 

長谷川等伯(1539~1610)筆《山水図襖絵》は、桐紋様の唐紙面に描かれたとても珍しい作品です。ちなみにこの襖絵は等伯51歳のころの作品で、後の彼の画が開花する重要な段階のものであります。

 

 

水墨画の基本的な「真・行・草」の各所帯を通じた等伯独自の個性が窺える作品。描かれている風景は生まれ故郷石川県七尾市の景色を描いたとされ、五七桐紋を雪に見立てたのではないかと言われています。

 

 

室中襖絵は《白龍》。赤松りょう(1922~1996)画伯の遺作で、荒れ狂う波涛から一気に天をめざす白龍の姿は、乱世を己が力で統一した秀吉の姿と重なります。

 

 

室中上部にねね様の肖像。

 

 

室中下部に本尊の釈迦如来が祀られています。

 

 

上間じょうかんの襖絵は、志村ただし(1949~)作《雪月花》。秀吉好みの金箔襖で、赤松画伯の遺作となった襖絵《白龍》に引き継いで制作されました。

 

 

ねねの小径こみちが見える廊下を通って方丈裏手に回りました。

 

 

ショーケースに《桜図》。高台寺のしだれ桜を題材に、志村正画伯が秀吉好みの金襖に描いたものです。

 

 

あぐらをかいた豊臣秀吉(1537〜1598)公の肖像。背景描写も充実していて豪華絢爛です。

 

 

対して膝立ちしたねね様の肖像。2幅合わせて、秀吉公が主であり、妻のねね様が礼をとっている様子を表現したそう。

 

 

無盡蔵むじんぞうに入りました。

 

 

昭和の圓徳院住職、後藤明道和尚(1994年没)の肖像画

 

 

後藤明道和尚の墨蹟「山花開きて錦に似たり」

 

 

後藤明道和尚が開窯した政所窯まんどころがま

 

 

政所窯 香合

 

 

ねねの甥、木下利房としふさ(1573~1637)公の坐像

 

 

北政所ねね様ゆかりの品

 

ねね様は夫・豊臣秀吉公を祀るため、高台寺を建立しました。その建立の中で編み出された技法が「高台寺蒔絵」です。現在でも漆・蒔絵の技法として人気が高く、当時のねね様ゆかりの品が圓徳院にも伝わっています。

 

《化粧粉入》

 

《手燭》

 

《硯箱》

 

 

「菊桐」の紋は、天下平定の功績により、朝廷から豊臣秀吉公が賜った紋であり、以後、豊臣家の家紋として使用されました。現在では、高台寺蒔絵の図柄として広く使用されています。

 

《菊桐紋大平なつめ

 

《菊紋小棚》

 

《桐紋煎茶天目茶碗》

 

 

「花筏」は、ねね様の墓所である高台寺の「御霊屋おたまや」の高台寺蒔絵の図柄であり、仏教の教えである「諸行無常」を示すとともに、日本人の好む桜が含まれるため、広く文様として、蒔絵以外にも様々な図柄として使用されています。

 

《七宝花筏香合》

 

《菊花筏茶碗》

 

 

芸術性の高い品々にうっとり。無盡蔵はとても小さな蔵でしたが、とても充実した空間でした。

 


つづく