イサム・ノグチTools① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

今回は、竹中大工道具館で見た展覧会「イサム・ノグチTools」を振り返ります。

 

 

展示は「木工具」「石彫りの道具」「陶芸と照明の道具」の3つのセクションに分かれていました。ここではそれらの道具を、イサム・ノグチ(1904~1988)の経歴に絡めて紹介します。以下の本文は展示室のパネルから引用しました。

 

 

  日本の道具に慣れ親しむ

 

イサム・ノグチは、詩人の野口米次郎(1875~1947)を父に、アイルランド系米国人で編集者であったレオニー・ギルモアを母にカリフォルニアで生まれました。先に帰国した父米次郎を追って2歳の時に母と日本に渡り、13歳まで日本で暮らしています。

 

 

ノグチは生まれつき手先が器用で、その才能に気づいていた母レオニーは、神奈川県茅ケ崎に自宅を新築する時に、日本語で注文を出すのが困難だったことから、当時10歳だったノグチに監督を任せました。

 

 

ノグチはこの経験がものづくりに目覚めるきっかけの一つになったと回想しています。母はその後、ノグチを地元の指物師のもとに見習いにも出しました。

 

 

「そこでぼくは木工用の道具の基本的な使い方を学んだ。道具を研ぎ、日本式に手前に引きながら鉋をかけ、鋸で切る。角材をつなげて、互いに嚙合わせる方法については、より簡単な種類のことを学んだ」

 

 

器用だったノグチ少年はすぐさま木工技術を吸収。ノグチが13歳の時、母は米国の教育を受けさせると決め、米国の学校に送りました。ノグチは「このとき大工道具を一緒に持ち帰り、今でもまだ持っている」と1976年のエッセイに書いています。

 

 

このときの道具が今も残されているかはっきりしませんが、ノグチが自身の少年時代の思い出を留める日本の大工道具に愛着を持っていたことが伺えます。

 

のこぎり

 

 

のみきり

 

 

前挽まえびき大鋸おが

 

 

木槌きづち

 

 

平鉋ひらがんな(西洋式と日本式)

 

 

セン

 

 

糸鋸

 

 

墨掛道具(墨サシと墨壺)

 

 

  ブランクーシの教え

 

学業優秀だったノグチは周囲の説得を受け、コロンビア大医学部に進学したが興味が持てず、母の勧めで立ち寄った美術学校で造形の才能を開花させます。

 

 

肖像彫刻が飛びぬけて上手く、すぐに個展を開いたところ大好評で、彫刻家としてスタートを切ることとなりました。

 

 

1926年、22歳のノグチは抽象彫刻家ブランクーシ(1876~1957)の作品を見て感銘を受けます。次のステップを模索していたノグチは早速奨学金を受けて、仏パリのブランクーシの門を叩き弟子入りしました。

 

 

木彫には自信のあったノグチだが、ブランクーシが得意とする石彫は初めてでした。ブランクーシは修行の第一歩として石灰岩から台座を切り出すときの平面の正確な出し方を教えました。

 

 

時には師と二人で長さ4フィート(約1.2m)の枠鋸を使うこともありました。弟子が一方から、師が反対側から引く。鋸がそれ自身の重さで切断するよう無理やり力をかけてはならなかったといいます。

 

 

ブランクーシは自身の手で石を加工することにこだわっていましたが、ついにはノグチに作品の一部の大理石加工を許します。

 

 

「ぼくに《鉄道》と呼ばれる道具をくれた。それはひどい音を立てるんだ…ギギギギギ、みたいな」。《鉄道》とは木の台に鋸刃を付けたのこぎりヤスリのことです。

 

 

ブランクーシと過ごしたのは数ヶ月のことであったが、ノグチは師の制作理念とあわせて多くの技法を吸収しました。

 

 

「ブランクーシは作業と素材について、それぞれひとつの道具を扱う正しい方法、そのひとつひとつに与えるべき敬意にこだわった」とノグチは回想しています。

 

 

ノグチはアトリエの整理整頓に病的なまでのこだわりがあり、棚の上にのみを整然と並べていたといいます。

 

 

そのうちの一本を作業協力者が取って使おうとしたところ、それをもぎとってこう言ったといいます。「これはブランクーシからもらったんだ!」。ブランクーシへの敬意が伝わるエピソードです。

 

 

つづく