2月21日(月)、西宮市大谷記念美術館に訪問。
お気に入りの美術館で、今年度の展覧会は全部制覇しました。前回の「プロダクトデザイナー・喜多俊彦展」は折を見て投稿しようと思っています。
今回の「コレクション・五題」は、近代日本画のコレクションと2020年度新収蔵作品の初公開、ならびに生誕130年を記念し、西宮ゆかりの日本画家・寺島紫明の作品を紹介する展覧会です。
入館時に作品解説付のパンフレットを頂き、それを読みながら展示物を見ました。今日は寺島紫明(1892-1975)の画業を振り返ります。
寺島紫明は、明治25年(1892)、兵庫県明石市に木綿問屋を営む寺嶋家の長男として生まれました。幼い頃から絵と文学に興味をもち、寺嶋玉簾のペンネームで雑誌に投稿していたという話もあります。
商売の見習いとして大阪にある長姉の婚家へ通う一方で文学への思いを断ち切れず、明治43年(1910)に上京。その後次第に画家を志すようになり、大正2年(1913)、鏑木清方(1878-1972)に師事しました。
清方門下では東の伊東深水(1898-1972)に対して西の紫明と並び称せられ、女性の内面に迫った、独自の美人画を描く事で知られています。
大正5年(1916)、清方とその門下生で結成した研究会「郷土会」第2回展に《夕月》を出品。
泉鏡花の小説『義血侠血』を花房柳外が戯曲化した『滝の白糸(1915)』を題材にしており、紫明はこの作品で、劇中で南京出刃打ちの的となる、滝の白糸の弟子なでしこを描きました。《夕月》は清方お気に入りの作品で、終生手放さなかったといいます。
昭和11年(1936)10月、紫明は次姉の世話で東京から西宮に移り住みました。その頃「九皐会」第2回展に出品した《素顔》は、宝塚歌劇の団員をモデルにした作品です。
肩や腕をあらわにして座り、短く切り揃えた髪を梳く姿は、《素顔》という題名からして、舞台衣装に着替える前のひとときを描いたものでしょう。
《冬靄(1941)》は、舞妓などを主題とした後年の穏やかな作品と比べ、当世風で直接的に感情を表している異色の作品です。岡本かの子の小説『生々流転(1940)』に取材した作品で、主人公蝶子が通う学園の体育教師、安宅先生をモデルにしました。
安宅先生は、蝶子らと深く関わっていくうちに常軌を逸した行動に出ますが、般若の面を思い起こさせる乱れた頭髪と狂気をはらんだ目付きには、尋常ならざる感情が表現されており、文学を志した紫明らしく、蝶子に翻弄される安宅先生の心情が丹念に描きこまれています。
《冬靄》は、昭和16年(1941)、鏑木清方の門下生によって結成された「清流会」第2回展に出品されました。なお、同じ年の第4回新文展に出品した《寸涼(1941)》で、紫明は初めて特選を取っています。
昭和45年(1970)、改組第1回日展に出品した《舞妓(1969)》で日本芸術院恩賜賞を受賞した紫明でしたが、昭和46年(1971)の5月、大阪の新歌舞伎座で観劇中に倒れました。その時、病を押して制作されたのが、《遅い朝》です。
朝寝から覚め、これから身支度をするのであろうか、櫛を持ち鏡台の前に座る女性が描かれています。作品には女性の姿形だけではなく、寝起きの気だるげな雰囲気もがよく表されています。
昭和46年(1971)の改組第3回日展に《遅い朝》を出品して以来、大作を制作することはなく、昭和50年(1975)に82歳で生涯を閉じました。
翌年、大阪高島屋や西宮市大谷記念美術館などで遺作展が開催されたのを皮切りに、寺島紫明(1892-1975)展は全国各地で度々採り上げられてきたよう。
こうして作品を並べると、年齢を重ねるにつれ、絵の中の美女も落ち着いてきたような。
《元朝(1937)》
《曙桜(1939)》
《姉妹(1958)》
今日はここまで。次に続きます。