淡路人形浄瑠璃資料館② | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 淡路人形浄瑠璃資料館は、1988(昭和63)年、三原町が民俗芸能文化財の保存伝承のため、市村六之丞座(いちむらろくのじょうざ)の一式全てを譲り受けて開設した資料館です。

 

 

 淡路には、人形浄瑠璃が京都で生まれる前から、人形操りの歴史がありました。淡路人形の由緒を書いた巻物に、道薫坊(どうくんぼう)伝記があります。

 

 

 その伝記によると、西宮の傀儡子・百太夫が道薫坊人形を操って諸国を巡り、淡路の三條に住み着いて村人に人形操りを教えたのが、淡路人形の始まりです。

 

 

 引田淡路掾(ひきたあわじのじょう)は百太夫の子で、淡路人形の元祖・上村源之丞座(うえむらげんのじょうざ)の初代座本を務めました。

 

 

 上村源之丞座に伝わる綸旨(りんじ)によると、1570(元亀元)年、引田淡路掾は宮中で三番叟(さんばそう)を奉納し、従四位下(じゅしいのげ)という高い位を授かりました。

 

 

 以降三番叟は、五穀豊穣や巡業の成功を祈る舞として、事始めに演じられるようになりました。

 

 

 淡路の人形座は、徳島藩の保護のもとで発展しました。徳島藩は税の一部を免除したり、御前操りや御手当芝居、御祝儀芝居をさせるなど興行の便宜を図り、時には資金の貸出もしました。

 

 

 徳島藩は上村源之丞座を手厚く保護しました。芝居根元記によると、1692(元禄5)年、経営難に陥った上村源之丞座が、徳島藩から銀札3貫目を借り、御手当芝居を行ったという記録が残っています。

 

 

 市村六之丞座は、1705(宝永2)年に九州の興行で成功を収め、市三條を拠点とする人形座の中で、上村源之丞座に次ぐ座として認められるようになりました。

 

 

 享保~元文年間(1716~40)は人形浄瑠璃の全盛期で、淡路に40以上の人形座がありました。淡路の人形座は常設の小屋を持たず、年間を通じて各地を巡業しました。

 

 

 人形から小道具、幕・水引等の大道具一式を、つづらや櫃に詰めてむしろに巻いて移動しました。その荷物の量は約40トン。大型トラック3台分に相当するといいます。

 

 

 淡路出身の植村文楽軒(1751-1810)が、1800年代の初め、大阪に創設した人形浄瑠璃の芝居小屋が、現在の文楽座に発展しました。

 

 

 人形浄瑠璃は歌舞伎に人気を奪われ、衰退の一途を辿りました。淡路に40座以上あった人形座は、1811(文化8)年21座、1907(明治40)年10座、1949(昭和24)年5座に減少。現在は淡路人形座1座です。

 

 淡路人形座は、1964(昭和39)年、市三條の吉田伝次郎座を継承し、発足しました。2012(平成24)年に、福良港に専用の劇場を設け、活動の拠点にしています。

 

 

 定時公演や特別公演、国内外への出張公演の他、淡路人形独自の演目の復活と伝承、後継者の指導、全国の人形芝居伝承活動への協力など、人形芝居の普及・復興のための活動も行っているようです。

 

 

 竹本駒之助(1935-)と故・鶴澤友路(1913-2016)は南あわじ市出身で、義太夫節の人間国宝に認定されました。