淡路人形座(歴史) | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 淡路人形座が代々伝えてきた「道薫坊(どうくんぼう)伝記」によると、淡路人形芝居は約500年前、摂津西宮から百太夫(ひゃくだゆう)という傀儡師(かいらいし)が三條(さんじょ)村を訪れ、地元の人に人形操りを伝えたのが始まりだとされています。

 

 南あわじ市の市三條(いちさんじょ)には、淡路人形の祖先神である道薫坊や百太夫、守護神戎神を祀る戎社があり、今も正月には社前で「式三番叟(しきさんばそう)」が奉納されています。

 淡路人形芝居は、恵比寿天をたたえ、海の安全と豊漁を祈願するものとして行われましたが、百太夫の死後は、家・土地・船を守るための神聖な季節の行事として定着してきました。

 

 淡路人形芝居は18世紀に全盛期を迎え、多い時には44座が日本全国を巡業しました。大阪の文楽、徳島の阿波人形なども淡路から伝わったもので、今も淡路系の人形座が全国に約80座残っています。

 

 淡路人形の一座は興行の際、戸口に金文字の看板を掲げました。この看板は、天皇家や藩主に認められた座であることを示すもので、看板を掲げた座の周りでは、他の興行が出来ないという暗黙の了解がありました。

 

 明治以降、人形芝居は衰退の一途を辿りました。その理由は、新興の芸能が流行って人形芝居の従事者が経済的に困窮してきたこと、長期間の修行を要するため後継者が集まらないことが挙げられます。1887年(明治20年)には20座あった人形芝居の座元も、1936年(昭和11年)には7座となり、現在は「淡路人形座」1座となっています。

 

 絶滅の危機に瀕した淡路人形芝居は、地元有識者の努力のもと、1952年(昭和27年)に後継者団体として「三原高等学校郷土部」を設置し、1964年(昭和39年)に吉田傳次郎座の道具類を引き継いで「淡路人形座」として興行を始め、1969年(昭和44年)に「財団法人淡路人形協会」を設立し、保護されました。

 

 淡路人形座は、日々淡路人形浄瑠璃館で公演する傍ら、国内外への出張公演、学校への出張講座、小中高校や子供会活動の後継者団体への指導、全国の伝統人形芝居保存会への協力など、伝統人形芝居の普及、発展のための活動も積極的に行い、1976年(昭和51年)、国の重要無形民俗文化財に指定されました。

 

 2012年(平成24年)に、淡路人形浄瑠璃館は市三條から福良に移転しました。福良バスターミナルから徒歩1分という立地で、交通の便が良くなっています。

 

 鶴澤友路の顕彰碑に刻まれた碑文を読みました。「1913年(大正2年)南あわじ市に生まれ、本名は宮崎君子。5歳で義太夫を志し、9歳で文楽座・野澤吉童に師事。後、三味線宗家6代、鶴澤友次郎の内弟子となり研鑽。義太夫節三味線の第一人者として活躍し後継を育て、1998年(平成10年)重要無形文化財「義太夫節三味線」保持者に認定される。」2016年(平成28年)に亡くなりましたが、そのような記述は無く、顕彰碑は移転した時に建てられた物だと思います。