埋蔵文化財センター(常設展③) | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

律令制について調べてみました。

 

 律令を統治の基本法典とした国家。律は刑罰法令で令は行政法。中国の隋・唐で確立し、朝鮮をはじめ周辺諸国に波及。日本でも681年に天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、701年大宝律令の成立により完成。全国を国・郡・里に分けて地方に郡衙(役所)が置かれました。官僚は班田収授によって人民に一定の耕地を与える代わりに、租・調・庸・雑徭などを課し、さらに良・賤の身分の別を定めました。荘園制の進展などにより、公地公民制が破綻する10世紀頃まで続きました。

 

 神戸市西区の吉田南遺跡に残る建物の跡や出土した木簡から、奈良時代から平安時代に明石郡の郡衙があったと考えられています。

 また、実物を見ないと分かりづらいのですが、神戸市北区の宅原(えいばら)遺跡から、「評」「五十戸」と墨で書かれた土器が見つかっています。なお、評は郡を指し、50戸の家は1つの里(り)にまとめられていました。

 

 人々は掘立柱建物に住むようになります。農業技術の発達により、平安時代頃から各地で多くの新しい集落が営まれるようになりました。

 

 農業や漁業、手工業などが発達するにつれ、多くの村でこれらの仕事を専業にする人々が現れました。

 

 

 神戸市西区神出(かんで)町は、平安時代終わり頃から鎌倉時代(11~13世紀)にかけて、全国有数の焼き物の生産地でした。神出で生産された瓦は京の都に運ばれ、寺院や建物の屋根に葺かれ、軒を飾りました。

 

 

  神出の窯で作られた日常の食器類は、九州まで運ばれました。

 

 

 人々は、さまざまな災いを避け、幸福な生活を送るために、色々なまつりをしました。遺跡からは、井戸の水が豊かに湧くことや、疫病を避けるために納められた木札や土器、家を建てる時に土地の神のたたりを受けないように納められた銭や土器などが見つかっています。

 

 

 奈良時代になると、それまでの大きな墓から小さな墓が作られるようになります。そして、仏教の広がりとともに火葬も行われるようになりました。火葬の墓は、遺骨を壺などに納めます。また、土葬の墓では、木の棺に食器などを供えたものもあります。

 

 神戸市灘区にある滝の奥経塚では、経典を入れた容器(経筒)を石室の中に納め、周りには鏡、中国製の焼き物、鉄製の小刀、銅銭などが一緒に納めていました。この経塚は平安時代終わり頃に作られたと推測されています。

 

 常設展は平安時代まででした。10月14日(土)から秋の特別展「"大輪田""兵庫"そして"神戸"~ミナトコウベの1300年~」が始まります。おそらく鎌倉時代以降の出土物が展示されることでしょう。