大倉山公園(記念碑) | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 大倉山公園は、1910年に大倉財閥の設立者である大倉喜八郎(1837-1928)の別荘であった土地の寄贈を受けて整備されました。野球場、体育館、図書館、文化ホールなどを含む大きな公園です。

 

 大倉喜八郎は貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した日本の実業家で、渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立し、東京経済大学の前身である大倉商業学校も設立した人物です。

 

 この台座にはかつて伊藤博文像が建っていました。伊藤博文の死後、親交があった大倉喜八郎が建てたそうです。伊藤博文は明治時代の内閣総理大臣で知られていますが、初代兵庫県知事でもありました。なぜ台座だけが残っているのかというと、第2次世界大戦中に銅像本体が金属供出されたからです。

 

 神戸海軍訓練所は、幕末に勝海舟の建言により、幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関です。坂本龍馬が塾頭(じゅくがしら。塾長のこと)を務めました。幕府と思想が対立し、わずか1年で閉鎖されたそうです。

 

 第2次世界大戦末期は、神戸もアメリカ軍から無差別攻撃を受けました。野坂昭如の「火垂るの墓」は神戸大空襲を題材にした短編小説です。

 

 大倉山公園はメーデーの集会場です。

 メーデーとは労使双方が休戦して夏の訪れを祝うヨーロッパの五月祭でしたが、1886年5月1日にアメリカ労働総同盟が、8時間労働制要求の統一ストライキを行い、労働者の日に転化しました。1日12時間から14時間労働が当たり前だった当時、「第1の8時間は仕事のために、第2の8時間は休息のために、残りの8時間は余暇のために」を目標に行われたそうです。

 日本では1920年に第1回メーデーが上野公園で行われ、およそ1万人の労働者が「8時間労働制の実施、失業の防止、最低賃金法の制定」などを訴えました。もうすぐ100年経とうとする今でも変わりませんね。