菊正宗 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

菊正宗酒造記念館の外庭に水車小屋がありました。

 

 1770年に幕府が油搾り株を発行し、都賀川に数基の水車を作ったのが始まりです。製品は「灘目の搾り油(胡麻油と菜種油)」として江戸まで運ばれました。

 稲の裏作として小麦を栽培していたため、水車は製粉にも使われました。「灘目のそうめん」も全国的に有名だったそうです。明治の終わりには酒造米生産への集中化により、そうめんの産地は播州に移りました。

 

 酒造米用の水車は昭和の始めまで使われました。その後、酒造米は電化製品で作られるようになり、水車は線香の粉を挽くために使われたそうです。1976年に最後の1基が焼失し、その役目を終えました。

 

灘酒の酒米は山田錦。精米歩合が低い米ほど米ぬかが多く、茶色っぽく見えます。

 

原材料と精米歩合によって酒の種類により、様々な酒ができます。

  米・米麹 米・米麹+アルコール
50%以下 純米大吟醸 大吟醸
60%以下 純米吟醸 吟醸
70%以下 純米(精米歩合に規定無し) 本醸造

 

 菊正宗酒造の創業は1659年、徳川4代将軍家綱の時代。嘉納家は自宅敷地内に酒蔵を建て、酒造業を本格的に開始しました。

 約600年前に御影「沢の井」の水で酒を造り、後醍醐天皇に献上したところ、天皇がとても喜び、誉め言葉を添えて受け取り、嘉納の姓を賜ったのが嘉納家の始まりです。

 

 18世紀末になると、江戸「下り酒(クダラナイという言葉の語源)」の人気が、灘の酒を急速に発展させました。なかでも江戸っ子に愛されたのが嘉納家の酒だったそうです。

 

 8代目嘉納治郎右衞門は、巨額の費用を投じて業界に先駆けた技術改善をして品質を高め、1886年に「菊正宗」を商標登録しました。

 戦後は宮内省御用達拝命を受け、1970年には業界始めての輸出貢献企業として表彰され、世界の「菊正宗」になりました。

 

 菊正宗のウリは辛口一筋。酵母(糖分をアルコールに変える微生物)を育てる「酛(もと)」を、水と米と米麹から、昔ながらの手作業で4週間かけて造り上げる、酒造りの原点と言える製法で、その製法は「生酛(きもと)造り」と呼ばれています。

 

 昭和の始めまで、酒造りは秋から桜が咲く季節までの仕事でした。「会所場(かいしょば)」は食事を取ったり休憩をしたりした部屋です。今のように交通機関が発達していなかったため、住み込みで昼夜を問わず働いていたことと思います。

 

 ここから昔の酒造りを辿りました。次に続きます。