古和田城天守付近
今回は紀ノ川市古和田にある中世のお城の話です。
お城はローソン古和田から北へ
この赤い点線で囲われた部分です。
グーグルアースで見ると堤型の綺麗な地形が見れます。
城館の中心は現在光円寺がある場所で
ここは周囲より一段と高くなっています。
河内楠木家 楠木正康の子楠木親遠がこの地に河内より移り住み
和田親遠に名を改めここに築城したことから始まります。
鎌倉時代末期頃?
その子供和田高遠は楠木正成の妹をめとり
その子正遠は楠正成の側近中の側近で、かの太平記では
(和田正隆わだまさたか)として正成の弟正季(まさすえ)と並ぶ片腕として活躍します。
大河ドラマ太平記1991では和田五郎の名前で登場します。
演 桜金蔵
和田正遠(太平記では和田正隆まさたか又は和田五郎正遠)
他に橘正遠まさとおと呼ばれていました。)
和田正遠は建武の新政で武者所に勤務しますが、足利尊氏が兵を起こし、
湊川の戦いが起こると楠木正成と正季の軍と共に最後まで戦い、討ち死にしたとされています。
正遠が戦死すると、その子高家が後を継ぎ、居を大阪の岸和田に移したため。代々住んできた
和田氏の古い土地を古和田(こわだ)と呼び、
新しく居を構えた大阪の土地が水辺の岸であったため
岸の和田 岸和田(現在の岸和田市)と名付けられた
と言われています。
太平記であまりにも有名な和田正遠の古和田城は
今は堀の一部と地形しか残っていません。
北部は小田の池、籠池などの池に囲まれ赤い点線上に堀が
あったとされています。
城に入る道は小田池と籠池に挟まれています。
中世の地形は今も見れませんが北側には池のような敵を遮るなにかがあったように想像します。
東側堀があったと推定される所。中央が光円寺の本堂
城の天守部分。左の田圃がかなり低く落ち込んでおり、
たしかに堀があったように見えます。
段差はずっと南まで続いています。
青が堀推定位置です。
この青いラインを辿っていくと、南側で堀が屈曲する手前で現在も堀の一部が宅地化されずに残っていました。
←の部分です。
このような感じで、当時より幅は狭くなっているようですが
古い地図を見てもこの部分は残されたままでした。
用水路や溜池にしては不自然な形をしており、堀跡の一部と想像します。
左側の家は石垣でかさ上げしていて
その向こうに光円寺があります。
右側の田圃は極端に低くなっています。
その奥はぐんと高く石垣が積まれています。
この民家の裏側にお寺がありそこが天守(館)
だったと推定されています。
裏側光円寺です。
お寺は石垣の段の上に建てられています。
西側を見てみると
古和田自治会館の中央の道が急に盛り上がっています。
中央の道とクロスする南北の道の溝の部分に
堀があったとされています。
この古和田にはもう一つ王城という城跡あり、
時間の都合でいけませんでした。
王城跡については後日ブログで紹介したいと思います。
裏地工務店のHPはこちらから