白鵬が内モンゴルの人と(口)けんかをしていたという話を聞いたことがある。これは知り合いの内モンゴル人経由の情報だから、マスコミなんかでは出ていないはずだ。


 最初はいい雰囲気で話していたそうだが、白鵬にしてみると、内モンゴル人のモンゴル語には中国語からの借用語が多すぎる。一方、内モンゴル人にすれば、白鵬のモンゴル語にはロシア語が多すぎる。


 お前のモンゴル語はなぜそんなに中国語を混ぜるんだ。


 お前こそ、ロシア語が多すぎる。


 こういう具合のけんかである。モンゴル語はいつか、モンゴル語と内モンゴル語のふたつ別々のことばになるかもしれない。


 かつてユーゴスラビアと呼ばれていた国の公用語はセルボ・クロアチア語であった。それがセルビア、クロアチアをはじめ、いくつかの国に分かれたことによって、もともとひとつにくくられていたセルビア語とクロアチア語が別々の運命をたどりはじめた。

 セルビア語はキリル文字を使って英語からの外来語を大量に採用しているのに対して、クロアチア語はラテン文字を使い、英語からの借用語は少ない。


 それを思えば1億2000万人も話者がいて、しかも本当は1枚岩ではない日本語も、ふたつないしみっつに分かれることを考えるのが合理的である。

 カタカナの問題だけをとっても、好きで使っている人、いきがって使っている人、遅れまいと使っている人もいれば、頑として使わない人、その存在を嘆き悲しんでいる人もいる。

 本当は片仮名以上におそろしいのが、構文の問題である。日本語の皮をかぶってはいても、中味はほとんど英語というような構文がじわじわと浸透しつつある。

 それがふたつ別々の言語にならないのは、地理的に棲み分けていないからで、地理的な棲み分けがあればとっくの昔に別々の言語になっている。

 別々のというのは、方言としてのくくりではなく、外からの影響に対する姿勢の問題である。カタルーニャ語がスペイン語の方言でないのは、スペイン語をはじめ、フランス語、オック語、プロヴァンス語などの外からの影響に対して、自らを厳格に意識して自らの体系を確立したからである。


 大阪が大阪都云々というのであれば、まず言語のうえで独立するべきである。方言としての大阪のことばを体系化するというのではなく、外部からの影響を明確に意識しながら、中央とは別の道を歩むことができる言語の体系を確立することである。


 父がアメリカに行ったとき、彼は15歳だった。


 こんなものは断じて日本語ではない。

 これを日本語だと思う人は、少なくとも私とは母語が違うと考えた方がよい。




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