「すべては導かれている」(その2) | 団塊耕志録

団塊耕志録

団塊世代の一員。社会的にプチ激動の時代に青春時代をすごし、あちこちに頭をぶつけて生きてきた人間の試行錯誤の記録と総括(死語かな?)をつれづれに書こうとするブログです。またそうした世代が今の時代に何を想い、何を感じ、終活に備えるブログです。


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以下の文章はすでにブログに収録済みです
が、コラム団塊耕志録第112回の後半部分
として転載しましたので、敢えて再録しま
す。これでようやくブログが100回目と
なりました。1000回の目標からすれば、ま
だまだ始まったばかりという感じですが、
すこしづつマイペースで続けます。


田坂塾特別講和 第15講「深く考える力」
を受講して (以下田坂塾長宛て所感)
 
 実は御著書「すべては導かれている」を昨
年の12月の購入したまま、未だ読めており
ませんでした。
 昨日の講演後の今日ではありますが、出張
で熊本の人吉に来ております。羽田空港待ち
時間、福岡までの飛行機、そして九州新幹線、
在来線と乗り継いで熊本県の人吉まで来まし
たが、その移動時間を利用して、最後まで読
むことができました。
 そして改めて昨日の講義を合わせて、田坂
塾長の思いを全身で受け止めるとができたよ
うな気がします。
 そして何よりも自分自身にひとつの気づき
がうまれました。

 実は私は田坂塾長とほぼ同じ1950年生
まれの団塊の世代ですが、つい先日68歳を
迎え、ここ数年終活と言う事に関心が行って
いました。

 自分が人生の最後を迎えるにあたり、自分
の一生、とりわけ、全共闘運動、その後に続
く新左翼活動をやったものとして、自分の活
動内容(8年もしつこくやりましたので…)
とその総括をやらねばならないとずーっと考
えていました。
 自分が書かせて貰っているコラムも、それ
を行う場として、位置付けていましたが、一
向にできないでいました。

 「総括」と言う言葉は魔物の匂いがします
が、依然として、でも総括をして自分なりの
責任を果たさねばと思い、また今日までそう
思っていました。
 しかし、田坂塾長の「すべては導かれてい
る」という著作を読んで、そもそも自分を総
括するという発想自体が違うのではないかと
感じています。
 自分の一生の良かったこと悪かったこと、
正しかったこと、間違った事を整理しようと
することが、「すべては導かれてきた」事に
気づかず、ひどく傲慢ではないかと感じてい
ます。
「すべてが導かれていた」という観点から自
分の一生(まだ終わっていませんが…)を見
直すと、心当たりが一杯あります。

 比較的波乱に富んだ世代であった自分たちの
歴史が「すべてが導かれていた」事の例証の
ひとつにでもなればと思います。

 もうひとつ気づきがありました。
年齢による自己限定です。
 自分は2月15日に68歳を迎え、以前よ
り、終活の必要性を感じて上記の様なことを
考えていたのですが、やはり今を生きるより
も過去の整理に関心が行ってました。
 好奇心だけは強いので、いろいろやっては
いますが、「あまりの人生」という感覚があ
りました。
 これはまさに「自己限定」そのものだとつ
い昨日気がつきました。
 過去の自分の人生を振り返っても直感的に
「すべては導かれていた」と思うのですが、
しかし、今現在も導かれており、次々と色々
な事が、起こってます。
 半分人生終わったような感覚が一方ではあ
ったのですが、何歳であろうと「死ぬまで生
きてる」事に変わりはないし、生きてる以上、
今を生きる、今を生ききる気概を持たねばと
思い、また68歳になった自分でもまだまだ
成長できるという事に気づかされました。
 
 年齢や自分自身の思う自分の能力に自己限
定せず、自分が持っているかも知れない潜在
能力を信じて、「今を生きて」行きたいと思
います。

ありがとうござました。


(2018年4月19日記)
団塊耕志録アメブロ版 0100

 

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