時代劇専門チャンネルに久しぶりに登録して、
時代劇にウハウハしているところ、1970代から1980年代にかけての時代劇を
意外と真剣な目で《失礼、酔って》見ていると思うのは、
その時代の語録や文化を知っている前提で作られているということ。
これを語ると長くなるので、本日の本題。
必殺人シリーズというと思い出すのは藤田まこと先生。
私の心の師匠なのですが、その前に必殺人シリーズが
あったのはご存知でしょうか?それぞれ、視聴率も高くなく早々に打ち切られているのですが、意外とシリーズ物が様々作られているのです。
あくまでも私なりの所見ですが、なぜに、仕掛人はイケて他はイケなかったか。
リアリティが美しいか、美しくないか、それに尽きると思います。
はい。
リアリティが美しいとは人は意外と感じないのです。なぜなら、
愛を語るシーンで冷汗を描くことをコメディでは表現できても、
意外とシリアスでは難しい。アニメーションではありますが、
あれは生身ではない。人は客観的な自身は想像できないということですね、
もとい、他者=客観的な自分なのです。難しいですねえ。
まあ要するに自己というのは誰も見たくないと、そういった感性は、
自ずと観る対象にも反映される訳で。何だか堂々巡りですね。
では、簡単に言いますと、初期の速水主水は人を切った時汗をかいているけど、
売れてからの速水主水は汗をかかない。
物語としての人殺しはクールでなければいけないというイメージですね。
しか〜し、仕掛人の初期もですが、何より仕置人、仕舞人は汗まみれ。
物陰に隠れて、重い刀で人を切る。そりゃあ、汗もダラダラしんどいもんです。
だからそこを表現している《すみません、勝手に言ってます《汗》
でもその汗の感覚が昭和でも“重かった”のかなあという事。難しいですねえ。
ちなみに私、両方好きです。物語としての江戸も、土埃を感じる江戸も。
どっちがホントウだったのか。きっとどっちも本当ですね。
最近よく思うのは、時代劇大事ですよ。日本の文化とか心意気。
また民放で普通に放送してほしいものですね。