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2009年10月06日(火) 21時05分41秒

【すべての鍵を握る松尾山城】

テーマ:小早川秀秋
 小早川秀秋が布陣した松尾山には城があっ
た。

 旧参謀本部編纂の「関ヶ原の役」(徳間文
庫)にも「第五章 本戦(1)本戦前の経過・
秀秋、病気で謀反の疑いをかけられる」のと
ころに「十四日、松尾山にのぼり、織田信長
のとき、不破河内守(光治)が築いた古い塁
砦に陣営をはった」とある。

 この城は浅井長政が築城した後、織田信長
の近江侵攻で開城した。そして近江平定後に
廃城となっていた。

 それを関ヶ原の合戦が始まる前に西軍の伊
藤盛正らにより改修していた。

 以下のサイトには見にくいが松尾山城の縄
張り図がある。

  古城探訪「松尾山城を歩く」

 豪華な天守閣があったとは思えないが、曲
輪に1万人は収容できる規模だから、それな
りの城が建っていただろう。

 西軍の武将は豊臣秀吉に築城技術を訓練さ
れているから短期間に強固な城にすることは
容易だったはずだ。

 石田三成はこの城に毛利輝元を入城させる
つもりだった。ところが輝元は大坂城から動
かなかった。(この時点で毛利一族に不信を
抱いていてもおかしくないはずだが)

 ところで三成は城を修築しただけで中は空っ
ぽにしていたのだろうか?

 三成は豊臣秀吉が死んだ後、朝鮮出兵して
いた多数の部隊を効率よく帰還させている。
それほど綿密な計画をする者が城に兵糧や武
器を配備していなかったとは思えない。

 西軍が調達した兵糧などは少なかった。ま
た東軍に奪われたといわれるが、伏見城など
東軍側の城などを攻めた時に兵糧を奪ってい
たはずで、松尾山城にはそれらが事前に運ば
れていた可能性がある。

 そもそも兵糧を確保できなければこの時点
で負けているし、そんな者に命を預ける気に
はならない。

 もし戦いが劣勢になれば宇喜多秀家や大谷
吉継などを籠城させて最終決戦を挑むつもり
でいた。そのために当初は西軍の伊藤盛正が
率いる少数部隊しか布陣させていなかった。
(というか西軍にはもう布陣させる部隊がい
なかった。毛利輝元の名代としてやって来た
はずの輝元の養子、秀元と吉川広家の部隊は
東軍側にある南宮山に布陣して西軍から離脱
している)

 ところがそこに病気で来るはずのない小早
川秀秋が突然現れ、あっさりと無血入城して
しまった。

 伊藤盛正は秀秋が伏見城攻撃に加わってい
たので西軍と勘違いしていた。だが、秀秋は
徳川家康に味方することを事前に知らせてい
る。あえて東軍だと名乗って城攻めする馬鹿
はいない。

 三成はこの出来事を「秀秋が西軍に味方す
るためにやって来てくれた」と楽観的にみて
いたのではないだろうか?

 詐欺にだまされる者は自分がだまされたこ
とを認めようとはしない。だから何度でもだ
まされる。

 三成も自分がだまされたと認めることはプ
ライドがゆるさなかったかもしれない。

 秀秋が松尾山城からなかなか出陣しなかっ
たのは城だけではなく兵糧や武器を西軍に奪
われないように守っていたからと考えること
もできる。

 ところが秀秋がこれだけしても家康はなか
なか西軍を倒すことができない。秀忠の部隊
も来ないことが分かり、しかたなく秀秋が出
陣することになった。

 その結果、たった1日で勝敗が決まる合戦
になったのではないだろうか?

 もし秀秋が松尾山城を奪っていなければ、
籠城戦でもっと多くの戦死者をだし、泥沼の
合戦になっていたかもしれない。
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