🌃2️⃣【5月21日(火)】名古屋東別院会館〖愚深会〗での輪読会〖午後1時半より、午後4時半まで〗
🟥『日常から精神へ』【絶版】(仲野良俊氏)【著書】を通して、鶴田義光先生より教えて頂きました。
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🔶ずっと仲野先生のお書き下されたものを読んでおりますが、ここで『成唯識論』を通して、信心の定義を教えて頂きましたが、仲野先生は真実の信心の方だと改めて思いました。
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🟩【p.166】〖信心の定義〗続き
【世の宝】
🔷第二の徳というものは、三宝の徳である。徳だから、宝という字がついている。
🟨三宝というのは仏・法・ 僧であるが、三宝は世間最高の宝である。

🔶もし仏がこの世に出なかったら、どうなるだろうか。
🔷おそらく私たちは、自分の心に自分が苦しんでいるのだということを、永遠に気づかず、外に解決を求めて空しく流転をくりかえすより、他ないであろう。

🔶幸い、仏がこの世に出られたために、私たちは目ざめる道があるということ、それによって、一切の問題がたちどころに解決し、満足と安心を見出すことが出来るということが教えられたのである。

🔷もし、こういう道が無いとしたら、問題を客体的に解決する。
🟨つまり邪魔なものは除け、都合のよいものをもってくるということか、
🟨あるいは、もしそれが出来なければ、自暴自棄になって、世の中を呪うか、この二つしかないであろう。

🔷仏が目ざめられたのは、仏を目ざめさせる法があったからである。

🔶法ということは、前にもいったが、ここでは真理である。
🔷しかし、その真理も客体的な真理ではない。
🔶私の根元、それによって一切が支えられているような真理、それを見出されたことによって、仏は仏になったのである。

🟨いわば、仏をして、仏たらしめたもの、また一切を仏にするものである。
🔷しかし、これは仏が見出されたからといって、増えはしない。
🔶また仏が見出されなかったとしても、減りはしないであろう。

🟨仏世に出ずるも、出でざるも恒常不変、永遠に変わりはない。
こういうものが本当の真理である。

🔷真宗では、南無阿弥陀仏に一切の真理がつつまれている。
🔶そして、法は仏によって、さとられた法である、という意味から、仏法【証法(しょうほう)と、仏によってさとられた法】であるが、私たちのために教えとなって説かれるという意味からは、教法である。

🟨教法ということで、はじめて法が人間に関係してくる。その時に生まれてくるのが僧である。

🔷僧というのは、本来、インド語の samgha サンガを中国の文字で僧伽と写したのを省略して、一字で、あらわしたものである。

🔶これは教法を中心にして組織された人間、今の言葉でいうなら、教団である。
🔷それで教団に属する人を僧という場合がある。

🟨仏法は人間を超えているが、それが人間に関係するところに僧が成り立つ。

🔶だから、僧は仏法の具体化であり、ここに、はじめて仏法の歴史が成り立つのである。

🔷そして、この歴史に召されることこそ、私たちの最高の救いであり、光栄なのである。

🔶僧伽(教団) は、私たちが自分の命を投げ出し、喜んで苦労の出来る場所である。

🔷真宗の人々が親しみと感激をもって、いつも歌っている親鸞の恩徳讃🟨
「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし、師主(釈尊)知識(伝統の師)の恩徳も、骨をくだきても謝すべし」は、生き甲斐を見出すことの出来た僧伽から生まれたものである。

🔶徳を楽ずるというのは、三宝がねがい求められることである。

🟨①【唯識と浄土真宗】信とは実・徳・能に於いて、忍・楽・欲して澄浄ならしむを性となし、不信を対治して、善を楽うを業となす〖成唯識論〗【令和5年1月27日】
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🟥https://youtu.be/7CpxZil4BdI
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