🟨①与韋提等獲三忍【無生法忍を三忍〖喜忍・悟忍・信忍〗で教える】信心歓喜の得益なり・仏智をさとる心なり【悟りの三相〖無常・苦・無我〗】・信心成就のすがたなり【令和6年01月06日】
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🌃🌟〖レジメ1️⃣資料〗
 
✡️『正信偈講座』梯(かけはし)實圓(じつえん)先生【著書】を参照
 
🟩無生法忍とは、真理を確認する
🔶韋提希夫人は『観経』の終盤で「仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得たり」
       【見仏得忍】
🟨仏身および二菩薩 ➡️ 阿弥陀仏の仏身と観音・勢至の二菩薩。
🟨廓然(かくねん) ➡️ 明るく開けるさま、からりと迷いが晴れたことをいう。
 
🔶と言われています。私のために、わざわざ出向いてくださった阿弥陀様のすがたを拝んで「無生法忍を得た」と。
「無生」とは不生不滅、
「法」は真理、そして「忍」は「確認」の認、はっきりと心に認めたことです。だから「忍」は「認」と意味は同じです。
 
🔶忍とは忍可(にんか)決定(けつじょう)【心のすわり】
 
🔶はっきりと真理を確認して、その真理と一つになることを忍と言います。
🔶したがって、無生法忍とは生死を超えた、不生不滅の真理に心が安住した、生と死を超えた領域に心が開けたことを言うのです。
🔶善導大師は、この無生法忍の内容を開いて、喜忍・悟恐・信忍という、三つの言葉で、その内容を知らされます。
🔶これが「三忍」です。ただこれは三つあるのではなくて、一つの無生法忍を、喜・悟・信という三忍で、もって表されたのです。
 
🔶 まず「信忍」の信は、仏様の真実を疑いなく受け入れることを言います。
🔶ですから信忍とは、仏のおすがたを見て、私が救われることに疑いが晴れたということです。これが、無生法忍の状態なのです。
 
🔶「悟忍」の悟は「悟る」です。
はっきりと確認したということです。
🔶悟という字はこころ(りっしんべん)に、吾という字が書いてありますが、自分の本当のすがたに気づき、そして自分の在り所をはっきりと知ることです。
 
🔶例えば、道に迷うというのは、本当は、行く先が分からないというよりも、自分が居る所が分からないのです。これが迷っている証拠なのです。
🔶だから町の入り口や辻に設置してある地図には、必ず現在地が書いてあります。あれで見当がつくのです。
🔶それなしに地図をいくら見ていても分かりません。自分がどこに居るのか分からずに地図を見ていても、分からないのです。
 
🔶自分の在りどころに気がつくと、全体が見通せるようになります。
つまり、自分の本当のすがたに気がつくことが悟りなのです。
 
🔶悟るとは自分が何者であるか、自分の居る所は、どういう場所であるか、ということを知ることです。
🔶私はどこにいても仏様の御手の中にいるのだ、ということに韋提希は気がついたのです。
🔶それまで、阿弥陀様はいつも居てくださった、いつも居てくださったけれども、それが分からなかった。
🔶悟忍とは、それに気がついたことです。いつも阿弥陀様の暖かい眼差しの中に居ることに気がついたのが悟忍なのです。
 
🔶「喜忍」これは喜びです。喜びというのは安心することです。
「わあ、うれしい」というよりも「ホッ」と安心することです。
🔶これが「喜」の一番中心なのです。それを安堵心と言う。安堵というのは安らぎです。「やれやれ」とホッと落ち着いたところで、安らぎが出てくる。
一番基本的な喜びというのは安らぎなのです。
 
🔶このように、仏様のおすがたを見て疑いが晴れ、真実に気づいてホッと安堵する。こういう状態を無生法忍と言うのです。そう善導大師が仰っているわけです。
 
✡️【正信偈大意】
「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」といふは、一心念仏の行者、一念慶喜の信心定まりぬれば、韋提希夫人と等しく、喜・悟・信の三忍を獲べきなり。
喜・悟・信の三忍といふは、一つには喜忍、二つには悟忍、三つには信忍なり。
喜忍といふは、これ信心歓喜の得益をあらはすこころなり。
悟忍といふは、仏智をさとるこころなり。
信忍といふは、すなはちこれ信心成就のすがたなり。
しかれば、韋提は、この三忍の益をえたまへるなり。これによりて真実信心を具足せん人は、韋提希夫人に等しく三忍を獲て、即ち法性の常楽を証すべきものなり。」
     【終了】