2002年韓国で出版された「親日派のための弁明」という本があります。著者は、金完燮(キム・ワンソプ)という人です。
この本は、韓国で有害図書の指定を受け事実上発禁処分となりました。この本の中に、「キム・ソンス君の証言」という実話があります。
以下の事件に加わった、キム・ソンス少年(当時)が、後年、告白した実話です。

【和夫一家殺害事件】キム・ソンス君の証言より

日韓併合時代、朝鮮に移り住んだ日本人の中には、明らかに立派な人々も多かった。

普段から人情に厚かった和夫は、小作料を収穫全体の10分の1しかとらず、村人達を家族のように考え、朝鮮総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらなかった。

和夫は近くに行き場のない孤児がいると、連れ帰って面倒を見ていたがその数は次第に増え、四、五年たつと私設孤児院規模にまで増えてしまった。

けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、自ら喜んで彼らの父、母を称した。和夫の家族は、このように朝鮮人を愛し、日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。

しかし彼らは、日本が降伏宣言をした1945年8月15日、自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害された。

その日、和夫さんが実の子のように育て、東京帝国大学まで留学させていた朝鮮人Aを中心に、和夫さんの家で教育を受け、成人するまで育ててもらった朝鮮人青年達が、カマとツルハシ、シャベルをもって、和夫さんのもとに押しかけた。

当時、現場にいたキム・ソンス君は、この時の状況をこう語っている。

和夫(優しい目で)「何故こんなことを、お前たち。」

朝鮮人A「チョッパリ!日本へ失せろ!失せろってんだ!!」

和夫:(わざと怒り声で)
「私が何かお前たちに間違った事をしたかい?お前たちは、みな私の子供達だし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。
お前たちの祖国が独立する事は、私も日頃から強く望んできた事だ。踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器を持って私のところにつめかけてきたんだ?私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。

(涙を流して)本当に悲しいよ、朝鮮の子供達。
私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合う事は出来無いということなのかい?お前たちが望むんなら、帰ってやろう」

朝鮮人A 意味深長な目配せをBに送る。
(財産を全部処分して帰ったら、俺達はどうやって食ってくんだ?)

朝鮮人B「死ね!チョッパリ!!(日本人への蔑称)この糞野郎!!!」

次々にツルハシが和夫さんの後頭部に振り下ろされ、それと同時にたくさんのシャベルとカマが体をズタズタに引き裂き始めた。

和夫さんの妻は耐えられずに飛び出してきた。それまでじっとしていた朝鮮人Cは、和夫さんの妻を見ると、彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。

そして、なんとその和夫の孤児達13人は、一週間前まで「お母さん」と呼んでいた“彼女を強姦し始めた。彼女はひどい集団強姦の途中で虐殺された。

朝鮮人Dは、普段、お母さんと呼んでいた彼女の“全身をめった刺し”にし、それでも足りずに“内臓をかき出して”撒き散らした。

和夫さんには「ひみこ」という娘が一人いた。「ひみこ」は、学校が終わって家に戻り、親に起きた“惨状を”見ると気が触れてしまった。

当時、「ひみこ」の慟哭が何日も続き近所の住民は眠れなかったという。

その後、孤児となった「ひみこ」は、食べ物乞いに村を回ったが、誰一人見向きもせず、知らないふりをした。

結局、「ひみこ」は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。「ひみこ」は小学六年生だった。

和夫の財産は、和夫が精魂込めて大切に育てた朝鮮人孤児達(この恩知らずの鬼畜ども)の手に丸ごと渡り、この事件は、『村人達の沈黙の中で徐々に忘れ去られていった。

以上「ねずさんの学ぼう日本」より

続いて「頂門の一針 6934号」より転載します。

【「国益」を封じてきた日本外交】【阿比留瑠比の極言御免】 令和6年7月18日

 戦後の日本がいかに異常な言論空間に閉じ込められていたかを、改めて実感した。自民党の高村正彦元外相のオーラルヒストリー(歴史研究のための口述記録)である『冷戦後の日本外交』を読んでの感想である。この中で、高村氏と聞き手の一人で外務省出身の兼原信克・元内閣官房副長官補のこんなやり取りが出てくる。

 高村氏「(平成10年7月に小渕恵三内閣の)外務大臣になって最初の講演をした時に、驚いたことがあります。私は、日本の外交は国益を守るためにやっている、と至極当たり前の話をしたのですが、外務省の若い職員が何人か来て、ありがとうございます、とお礼を言われました。彼らによると、『国益を守る』というのはそれまで言えない雰囲気があったそうです」

 兼原氏「私が81年(昭和56年)に入省した時も言われましたよ。国益と戦略という言葉は使っちゃいけないと」

 現在なら、外務省が国益を追求しないでどうすると誰しも思うだろうが、確かに日本はそんな国だった。

[「当たり前」の答弁]

 同書とは別だが、ある大使経験者も「外務省には国益とか、愛国心といった言葉を小ばかにする風潮があった」と語る。敗戦国の引け目もあり、国際協調や友好ならばいいが、日本だけの利益を主張するのは野蛮だという発想だろう。

 このエピソードを読んで「やはりか」と得心したのは次の記憶からである。平成15年6月、参院決算委員会で世耕弘成氏の中国への政府開発援助(ODA)に関する質問に、小泉純一郎首相(当時)はこう述べた。

 「国益を考えない援助はあるか。ODA政策の中に国益の視点があるのは当然だ」「(援助が)どのように使われているのか。本当にその国の国民が感謝しているのか、喜んでいるのか、厳しく見直していかないといけない」

 今ならごく当たり前の答弁に筆者は驚き、ただちに当番デスクに出稿を連絡した。「首相、ODAは国益勘案」「対中国『認知度など吟味』」との見出しがついた記事は、翌朝の1面トップを飾った。

[親日国を後回し]

 約20年前までは、それだけ首相や閣僚、外務官僚らが率直に「国益」を語るのは珍しく下品なこととされていたのである。それが今では、わが国の国益とは無縁の場所に立っていそうな社民党の福島瑞穂党首らまで、ときに国益を口にするようになっている。

 時代の変遷とともに価値観も変化していく。また10年ほど前には外務省幹部からこんな言葉を聞いたことがある。

 「もともと外務省には、親日国を大切にするという発想はなかった」

 あることないこと対日批判を繰り返す「反日国」に頭を下げたり、ご機嫌を取ったりするのに手一杯で、親日国と手を携えて未来へ進むことまで頭が回らなかったのかもしれない。

 本書に話題を戻すと、高村氏といえば24年9月の自民党総裁選で次のように述べて、早い段階で安倍晋三元首相支持を表明した人物である。

 「候補者の中で統治能力というか、官僚組織を動かす力、官僚を使いこなす力を比較すると、安倍さんが一番優れている」

 当時、安倍氏に対してはこれと正反対の見方が多かっただけに、高村氏の炯眼(けいがん)に刮目(かつもく)した。本書でも、高村氏が麻生太郎元首相に電話で「このメンバーの中で内閣を仕切れるのは安倍さんだよな」と話す場面が出てきて興味深い。

(産経新聞論説委員兼政治部編集委員)

☆☆☆☆☆☆☆  松本市 久保田 康文 産経新聞令和6年7月18日号