【米国発のオイシイ話にはご用心】
イリノイ州に進出した三菱自工が男性従業員にセクハラをやれと勧めた。女性従業員が苦情をいうと「生意気な。辞めさせるぞ」と逆に脅された。米政府はこんな筋書きで三菱を訴え、米メディアも嘘を承知で三菱の不買運動まで煽り立てる。
 
日本の外交官も特派員も沈黙して、結局、三菱は40億円も米政府に脅し取られた。

ヒューストンの弁護士は「東芝のパソコンは一度に幾つかの作業をさせると故障する」はずだと訴えた。東芝は一台の故障もないのに1100億円を脅し取られた。ヒューストンには日本の総領事館も日経、読売の支局もあったが、彼らは何もしなかった。

支那人は悪辣でヤオハンだって潰された。しかし米国は人も政府も悪辣さで支那を超える。おまけに日本の外交官も特派員も知らん顔をする。さみしいものだと三菱の幹部はしみじみ語る。

同じ頃、米企業が文明堂商事をロサンゼルス連邦地裁に商標権違反で訴えた。契約が切れたのに米企業のブランドを日本で使い続けたというのだが、文明堂は一流と言われる日本の国際法律事務所を代理人にして反訴した。

商標権侵害は日本で起きたのだから、米国に管轄権はないという主張だ。裁判管轄権は国家の主権に属するから当然の主張だ。日本は米国の51番目の州ではない。

しかし、ロス連邦地裁は「米企業が関わっている以上、米国に裁判権がある」と判断を下す。米国人が関われば世界の果てまで米国法が及ぶのだ、という誇大妄想、独善の言い分だ。

するともう一度驚いた。文明堂を担当する弁護士事務所が「そんな判断は出てゐない。お前を虚偽報道で訴える」と脅してきた。これは、日本側の弁護士事務所が訴訟を米国の弁護士に丸投げして、カスリだけを取っていたからだ。

だからそんな判断が出たことも知らないし、丸投げ先から連絡もないから新聞記事が出て、何だこれはと依頼人から怒られる。丸投げ先もこんな国際ルール無視の判断が出るなど予想もしないから、日本側にも不得要領な連絡しかできない。

では自分で調べればいいが、日本の弁護士は米国の法廷の仕組みも知らない。怒る依頼人の手前、この際誤報という事にして新聞を訴えてしまえとなった。

これが「国際間でも訴訟は任せなさい」と胸を張る日本の“国際弁護士”の実態だ。

以上「日本よカダフィ大佐に学べ」高山正之著より

続いて「頂門の一針 6780号」より転載します。

【防衛義務もない…拙い条約】
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【杉原誠四郎「吉田茂という病」】無抵抗に受け入れた日米安保条約が「戦後レジーム」の基本的骨格に 日本を米軍基地のように扱い防衛義務もない…拙い条約 夕刊フジ令和6年2月7日号

1951(昭和26)年1月29日、吉田茂首相と、来日したジョン・ダレス対日講和条約交渉特使との間で、講和条約と日米安保条約の交渉が始まった。

 それに先立つ同月26日、ダレスはスタッフ・ミーティングを開いた。ダレスは安保条約について、「われわれが望むだけの兵力を、われわれが望む場所に、われわれの望む期間、日本に駐留させる権利を獲得できるかできないか、これが重大な問題だ」と語った。

 つまり、日本全土を1つの米軍基地のように自由に使う「権利」としての米軍駐留であり、日本を防衛する義務のないものだった。

 引き続きダレスは言った。「米国にそんな特権を与えるような政府は、『日本の主権を傷つけるのを許した』と必ず攻撃されるであろう。われわれの提案を納得させるのは難しい」と。

 ところが、吉田は同月29日に始まった交渉で、そのような日米安保条約の提案にまったく抵抗しなかった。抵抗の素振りさえ見せなかったのである。

 この間の日米交渉を研究した政治学者の豊下楢彦(とよした・ならひこ)は、このような交渉ならば"凡庸な政治家"でもできたと言っている。 

 吉田がこだわったのは「再軍備」反対である。米国側は、財政面や物質面では援助する用意があるから経済的負担は考えなくてもよいとまで言っても、「再軍備」反対の態度は崩さなかった。

 日本国土の全土を1つの基地にした日米安保条約の構想は、基本的にはGHQ(連合国軍最高司令部)の最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥の構想と一致している。吉田は、ダレスと会う10日前の同月19日、マッカーサーよりこの構想を聞かされ、それに応じたがゆえに無抵抗だったのだ。

 ダレスの帰国後、吉田は講和条約と安保条約を締結するサンフランシスコに行きたくないと言い出した。さすがの吉田も「拙(つたな)い安保条約を受け入れた」と思って、行きたくなかったのではないか。

 昭和天皇のご叱責を受けて、最終的に吉田が全権として行くのであるが、一国の責任ある首相としては考えられない逡巡(しゅんじゅん)である。

 この不平等な安保条約は60(同35)年、岸信介首相によって少し改められたが、基本的構造は変わらない。そして、それが現在も続く「戦後レジーム」の基本的骨格となっているのである。 (敬称略)

■杉原誠四郎(すぎはら・せいしろう) 教育研究家、日本近現代史研究家。1941年、広島県生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。城西大学教授、武蔵野大学教授を務めた。新しい歴史教科書をつくる会顧問。著書・共著に『外務省の罪を問う』『保守の使命』『吉田茂という反省』『続・吉田茂という病』(いずれも自由社)など多数。

☆☆☆☆☆☆☆ 松本市 久保田 康文  

夕刊フジ令和6年2月7日号採録