現「日本曹洞宗」は全てが瑩山禅師の法孫である。

これは、最澄が始めた「日本天台宗」の本流であり、

インド密教(天台密教)と(最新の中国仏教)中国禅とを、

完全に融合し、

坐禅修業で「梵我一如のお悟り」に導くものであった。

 

他方、

道元は「原始仏教=正伝の仏法」であり、中国禅を完全に否定し、

その本質「見性成仏」「教外別伝」を否定し、

「禅宗」「禅師」と呼ぶのを禁止した。

 

だから、

「義介」禅師、「瑩山」禅師が、「道元」和尚の「純粋禅」から堕落したのではなく、

本来の「天台密教、梵我一如のお悟り」「日本天台本覚思想」を正統に受け継いでいるのであり、

室内の口伝で、その教えの奥義を伝えるのは、当然のことである。

 

更に、

「懐奘」も「義介」も、道元和尚から「嗣書=血脈図の書」を授かっていないのだから、

当然「瑩山」禅師の法系には「嗣書」が伝わっていない。

だから、

「瑩山」禅師は「五老峰というストーパ」を築き、

中国人の「如浄」禅師を「高祖」に据えて、その法を「瑩山」禅師が「嗣法」したという神学を創った。

「高祖・如浄禅師」道元、懐奘、義介、最後に「瑩山」禅師と、そっくりそのまま伝わった、とした。

これで、「道元」和尚の「原始仏教」は、完全に封印された。

 

他方、

九州で布教した「義尹」和尚の法系には、道元の「嗣書」が連綿と伝わっている。

 

〇 〇 〇

 

天台密教僧「大日・能忍」が、「中国禅の語録」を独自に研究して、それに従って修行した。

「無師独悟」だから、当然「天台密教、梵我一如のお悟り」に至った。

これが「日本達磨宗」であり、急速に広まり大きな勢力になった。

このため、それまでの仏教側から弾圧を受け、朝廷から布教を禁止された。

栄西禅師は、この達磨宗を、戒律を無視する異端として批判するが、

これは「禅の語録」に、それなりに、根拠があるものであった。

 

朝廷から、栄西は、達磨宗と一緒に、布教の禁止を受けたので、それと同じではないと、

誇張して、批判している。主著『興禅・護国論』である。

 

つまり、

現在の日本曹洞宗、瑩山禅師の法孫は、

「看板」は「道元」和尚だが、その中身は、「天台密教、梵我一如のお悟り」である。

 

〇 〇 〇

 

バラモン教の「ウパニシャド哲学」では、・・・

「語」は、火であり、

「眼」は、太陽であり、

「耳」は、方位であり、

「思考力」は、月であり、

「気息」は、風である――

この「宇宙」と「宇宙」の対応の思想は、やがて

「個体の本質」アートマンと「宇宙の最高実在」ブラフマンの「一致」

の自覚、「梵我一如」へと深化されました。

 

古代インドに展開された

生の根源とは何かを求める叡知、神秘思想の本質を、

初期ウパニシャッドをもとに解明した最良のインド思想入門。

 

『古代インドの神秘思想  初期ウパニシャッドの世界』

 

第一章 古代インドの叡智――ウパニシャッドが現代に伝えられるまで
第二章 祭式から哲学へ――ブラーフマナとウパニシャッド
第三章 ブラフマンとアートマン――最高実在と個体の本質
第四章 「有」の哲学――ウッダーラカの学説
第五章 「非ず、非ず」のアートマン――ヤージニャヴァルキヤの思想(1)
第六章 輪廻と解脱――ヤージニャヴァルキヤの思想(2)
第七章 アートマンと外界――『カウシータキ・ウパニシャッド』の教説
エピローグ

 

 

「瑩山」禅師も「天台密教、梵我一如のお悟り」ですから、…初祖「大日・能忍」

この瑩山禅師の法孫である、日本曹洞宗の「内山興正」禅師は、次のように教えています。

ここでは、

「小宇宙」は、「自己」「私という「思い固め」

「大宇宙」は、「天地一杯の生命

この二つが、実は「一つのものである

と、知って、「安心・あんじん」を得る。

これは「神秘主義」、或る種の「グノーシス思想」です。

 

「生死」

 

手桶に水を汲むことによって

水が生じたのではない
天地一杯の水が手桶に汲みとられたのだ


手桶の水を大地に撒いてしまった

からといって
水が無くなったのではない
天地一杯の水が

天地一杯の中にばら撒かれたのだ


人は生まれることによって
生命を生じたのではない
天地一杯の生命
私という「思い固め」の中に汲みとられたのである


人は死ぬことによって

生命が無くなるのではない
「天地一杯の生命」が私という「思い固め」から
天地一杯の中にばら撒かれるのだ

 

現在の日本曹洞宗は、全てが、「瑩山禅師の法孫」ですから、(…他は、途絶えた)

この教えを信じて

「自己」が永遠の存在と「知って」、「生死の恐怖」から救われることができます。

 

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