ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは?(第2回 言語の本質 その1)(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 

ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは?(第2回 言語の本質 その1)

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現代ビジネス

(左)轟孝夫(右)南直哉/撮影:村田克己

 「20世紀最大の哲学者」ハイデガーと、13世紀、曹洞宗を開いた僧・道元。  時代もバックグラウンドも異なる二人ですが、じつは彼らが考えていたことには意外な親近性があったのではないか?   哲学と宗教という異なる「探求」の道が一瞬、交わったときに顕らかにされる「真理」とは?

 

   ハイデガー哲学の研究者・轟孝夫と曹洞宗の老師・南直哉によるスリリングな対話!

 

  【写真】机はいつどのようなときに机なのか?…ハイデガー哲学研究者と老師の対話

ロゴスを超える

撮影/村田克己

 南直哉(以下、南):僕、思ったのはですね、ハイデガーは最初、ロゴスティックな『存在と時間』から始まって、だんだんと新たな言語が多くなっていくでしょう? 道元禅師はその逆で、最初は新たな言語みたいなことをやっていたのに突然、あるときになって誰が読んでもわかるような退屈な経典の話になるんです。  「出家は大事だよ」とか、「受戒しなきゃ駄目だよ」とか、「袈裟をちゃんと着ろ」とか。そんな、読めばわかるみたいな話ばっかり出てくる。  で、同じ主題でも、こっちに書いたことと全然違うようなことがこっちには書いてある。そうすると、ほとんどの人は、前をぜんぶ否定して書き替えようとしたんだと言うんだけど、いくらなんでもそれはねえ。  それで思ったのは、基礎教育の部分をちゃんとして、修行僧の主体性を確立する、つまり誰の偈語(げご)も受けなくても修行ができるような、ある種の主体性を確立させないといけないと思ったんじゃないかと思うんです。弟子を教育しなきゃいけないわけで、そこは思想家とは違うなと。  つまり、今までずっと思想的な問題を追求してきて、そうしていれば育ってくると思っていた弟子が育たないとなると、語り口を変えてテーマも変えざるを得なかったのではないかと。  そう言えば、ハイデガーの場合には、パウル・ツェラーンとの付き合いに見られるように後期の語り口は、詩と接近していきますよね。  轟孝夫(以下、轟):エッセイみたいなね。あとヘーベルという郷土詩人。アレマン語というドイツ語の方言を使って詩を詠んでいて、内容は素朴といえば素朴なんですけど、そういうところに立ち返っていく。「すべて人生で大切なものはこの野の道で得られるんだ」、みたいな。  南:最晩年、そういうところがバーっと出てきますけど、やっぱりハイデガーの言語には常にその根底に詩的なセンスがあったような気がします。聖書にも文学作品の一面があるでしょう?   なぜそんなことを思うかというと、当時の禅僧は漢詩ができないと話になんないわけです。偈頌(げじゅ)を書くので。道元禅師も本人は、そんなことするもんじゃないみたいなことを言っていますが、詩的言語に対する教養と感覚は、大して歌は上手くないけれど、歌は駄目なんだ(笑)。駄目なんですけど、詩的な感性とか、詩的言語に対する造詣は深かったと思うんです。  轟:ハイデガーはまさにそうです。ヘルダリーンとか、リルケとか、学生時代から。  南:独特の言語体系を構築していくのに、詩の言葉に対する、あるいは詩に対するセンスというのは、やっぱり大きかったんじゃないか。ロゴスでは語りえないもの、囲い込み切れないものに向かっていくということになれば、その辺の資質が効いてきたような気がします。  轟:ハイデガーが言っている「真理」は、ロゴスでは抜け落ちてしまうものですからね。詩というか芸術こそが、その真理を作品のうちに置くというのがハイデガーの立場です。

 

 

 

言語は運動である

撮影/村田克己

 南:

実は『正法眼蔵』の「有時の巻」で、いちばん最後に突然、言語論が出てくるんですよ。

 

 

  轟:

あっ、今日、ちょっと読みました。

 

  南:

あれね、なんでここなんだか、訳わかんないんですよ。

 

  轟:

わけわかんないって書いておられますね、唐突にここで言語論を論じる、おかしいと思われるかもしれないと。

 

  南:

あの「意」と「句」というのは、シニフィアンとシニフィエみたいなものだと思うんです。そうすると、普通だと、まず意味というものが先にあって、それに対して一対一の対応関係で声とか文字でラベルを貼るというのが言葉についての考え方ですが、どう見たって道元はそうは考えてないわけです。

 

「意味するもの」と「意味されるもの」は、ある運動の中で同時に成立するというふうに読める。

 

  それどころか、場合によっては記号のほう、シニフィアンのほうが先で、そこから「意味」がまとまって立ち上がってくることでさえもある。

 

  「句が到る」とか「意が到る」とかと書いているということは、1対1対応というものは言語ではないと思っているんだと思うんです。詩的言語は固定した意味に対してラベルを貼ることではないでしょう? 建売住宅じゃないんだから。そうすると、場合によっては、それまでとはまったく違う記号の使い方で意味を産出するようなところがある。

 

  轟:

そうですよ。ハイデガーの訳のわからない言葉というのは、まさしく道元禅師の言う「句」です。そこから、どういう「意」があるのかなということに、いろいろ考えをめぐらすという。

 

  南:

しかも書いている本人も、最初から、「これだ!」と確信のあるものを「句」で語っているんじゃないと思うんです。

 

  轟:

ハイデガー自身も、ある意味において、自分の語りたかったことを「この言葉」ではうまく語れていないという思いをずっと抱えていて、常に模索していく。やっぱり「意」と「句」が一致してないという状況があった。

 

  南:

禅で「不立文字(ふりゅうもんじ)」っていうでしょ? あれね、簡単に考える人は、言葉は駄目だみたいな話になるわけです。でもそうじゃなくて、あの「不立文字」っていうのは、特定の言語、語り口に固執しては駄目だということなんだと思うんです。

  つまり、われわれは、たしかに言うことは言えるけれど、常に言い間違える。だから言い方を更新しない限りは、曰く言えないものっていうのは立ち上がってこないというのが言語観としてあったんじゃないか。言葉で言えないものは、言い続けること以外によっては現れないというような。

 

  轟:

いやそれは、すごく共感するところがあって、ハイデガー自身も、言い方を変えていきますよね。じゃあ、前の言い方には意味がなかったかというと、そうではない。うまくいかないからこうしたという、そのプロセス全体の中から初めて、「ああ、こういう事柄を全体として出そうとしてるんだな」ということがわかってくる。 つまり運動なんですよ。

 

  南:

そうなんですよね。『存在と時間』もそうですが、ハイデガーの哲学には一種の言語の運動を感じるんです。『正法眼蔵』も、まさに運動状態の言語です。さっきも言ったように『正法眼蔵』の場合、「有時の巻」の最後に突然、言語論がある。「道得(どうて)」というのが。これも非常に興味深い。「道得を道得するとき、不道得を不道する」つまり、「言うことをちゃんと言う」、するとそこに「言えないこと」が出てくる、そう書いてある。でもなぜ「有時の巻」のいちばん最後にこんなものが出てくるのかなと。  思ったのは、「有事」というタイトルで、ある次元を開いているわけです。だがそれは、通常の言語でやったら必ず失敗する。把握できない。そうすると、それを捉える言語を考え直さなきゃいけない。つまり、あの「有事の巻」で使っている道元禅師の言語とは、通常の、意味がまずちゃんとあって、こっちにラベルみたいのがあって、ということじゃないんだと。自分が使っている言語は構造が違うということを言い添えたのかなと思ったんです。

 

  【つづきは「ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは? (第2回 言語の本質 その2)」でお楽しみください! 】  *

轟 孝夫(防衛大学校教授)/南 直哉

 

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