キリスト教が、理解できていない「せい」だろう。

 

 

禅キリスト教の誕生

 

『禅キリスト教の誕生』

2007/10/26 佐藤研(著)

禅に保存されている生きた体験の事実と、
キリスト教に具わる共同体的・歴史的な力とを
二つの媒介とする、新しい宗教性のヴィジョン。
 
「復活」の禅的理解、「公案」の聖書的創作……
「宗教的なるもの」のより普遍的かつ根源的な場への転回を目指す。
 
==或る書評より
著者も所属している「三宝教団」に時々おられる
禅をやりながらキリスト教徒でもある、というのが
どういうことなのか、これまではよくわからなかったが、
この本である程度イメージがわかった。
 
私自身は禅の既成概念を壊す破壊力に引かれキリスト教から禅宗にきっぱりと転宗した。
やはり同時並行で修行している人の宗教観に対して、
禅は徐々に変容を及ぼしているようだ。
人格の無い神、神格の無いイエス、それは
もうキリスト教とはいえないものになっていくのではないだろうか。
 
==或る書評より
私はこの本を、禅とキリスト教の融合と、他宗教の新しい地平として読みたかったのですが、
少し意図と外れるところがありました。
というのは、著者は、この本を、キリスト教徒の再出発として、座禅修行を推奨しているにすぎないからなのです。

もっとも、ヨーロッパのキリスト教の歴史は非常に根深く、他宗教感との軋轢もあるなかで、
昨今は禅を受け入れる人が増えているのですから、
そういった寛容の態度が、さらなる新たな地平を見出だすことは否定できません。
こういった著書が出版されていることに驚きました。

この書に書かれている公案は、他宗教信者でも、無宗教者でも、
真摯に修道するものとして共感できることが多いのではないかと思います。
また宗教と哲学の違いについての記述も詳しく書かれており、
さらに禅とキリスト教、禅キリスト教への理解も深まります。
 
==或る書評より
本文、134頁 ~ キリスト教の最終目標・・・イエスを意識的に祭り上げ、
その祭り上げたイエスの側に自分を特別に置こうとすることこそ、
実はひそかに裏切り続けることなのです。
これまでのキリスト教は、この「罪」にあまりにも染まりすぎていたように思うのです。

これまで思っていたこととピッタリ同じ。
イエスをただ一人の神の子としキリスト教信条を信じる者が救われるとしたことは、
霊の導きではなく彼らの思考であり、無意識にせよ独占的な権力のためだったと言えば言い過ぎでしょうか?
 
マルコ・マタイ・ルカの共感福音書 → ヨハネ 「私は道、真理、命である。
私を介してでなければ、誰も父のもとに行くことはできない。 → 「カルケドン信条」
ドグマ・教義などでキリスト教徒は時と共に深遠かつ詩的なイエスの教えをないがしろにし、
自分たちの威厳を強めてきたのです。
現に彼らは魔女狩りなどと称して驚くべき多数の人を殺しました。

近代では、戦争を仕掛け悲惨な状況を作り出しました。
イエスの教え、その精神や生き方をあまりにも無視してきたように想えます。

イエス『神の国は,見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』 ルカ 17:20 (岩波書店)
  「神の国はあなたがたの心の中にある」というようにも解釈したい。
自分たちの心の中、人との関係性に天の王国はあるようです。
そして著者は内面を深める禅を勧めます。
 
==或る書評より
西洋社会(本書では主にドイツ)に「禅」が輸入され活況を呈し、
その影響がキリスト教のあり方にも変化をもたらしているという。
そうした新たなる宗教現象の近況を報告し、その思想的・神学的な意義や可能性を様々に検討した論考をいくつかまとめた本。
 
「禅」とキリスト教がどこで合致し融合し、逆にどういう要素が相容れないのか、という比較宗教学的な関心に応えてくれるのはもちろん、そもそも、現代の代表的な聖書学者の一人がこのような書物を発表した、という事態そのものが興味深く、自ずと思索がすすむ一冊である。

「坐禅をするためにはまず何よりも「仏教徒」になる必要は全くないのである」ということで、
西洋のクリスチャンたちは何も「仏教」に改宗している訳ではなく、
形骸化した正統キリスト教に代わり
霊的な直接体験をもたらしてくれる「禅」に、
自己の実存的な欠乏感を満たしてくれるはずの「道」を求めているようである。

だが「禅」の受容は、単に身体技法としてのみならず、思想的な革新をも徐々にだが確実に、現代のキリスト者たちにもたらしている。
例えば「神」に対するイメージは、これまでのように大いなる人格的な存在ではなく、
より抽象化された真理となり「空」のような発想に近づいているらしい。
そのうち「『神』とは『カラッポ』の世界につけられた別名であると理解されるに至る」かもしれないのだ。

また何よりも、イエス像の刷新、というのが最大のポイントである。「カルケドン信条」で確約された、「三位一体」教理に基礎付けられた人神的な超越者から、
仏陀ような、真理を求めて共に歩む一人の普通の人間へと、イエス像がはっきりと変換してきている。
 
無論、19世紀のシュトラウスに代表される近代聖書学の発展によって、イエス像はすでに通常の人間へと描き直されてきてはいたのだが、しかし単に学問的な議論ではなく、
それぞれが「禅」の体験を通して、イエスという
かつて生きて死んだ人間の感覚を想像的に追体験できるようになった、という状態が決定的に新しい。
かくしてキリスト教は、「イエスにおいて人間の本質と可能性を知り、イエスの生死に学ぶ宗教」と再定義される。
 
一人の立派な禅僧を見るような目で、イエスを見ることの可能性を著者は語るのだ。
これは新鮮なキリスト教論である。