欧州やアジア各地と積極的に交易し、鎖国は考えていなかった家康【徳川家康 逆転の後半生をひもとく】(サライ.jp) - Yahoo!ニュース

 

欧州やアジア各地と積極的に交易し、鎖国は考えていなかった家康【徳川家康 逆転の後半生をひもとく】

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読書家で鷹狩好き、自ら薬を調合した天下人の知られざる素顔

『南蛮船駿河湾来航図屏風』( 左隻部分)。「南蛮」とは中国大陸の朝廷に帰順しない南方異民族への蔑称。日本ではヨーロッパや東南アジアの人や物を指す。九州国立博物館蔵

読書を好み、書の普及に尽力した家康は、鷹狩を愛し、調薬を手がけるなど、多様な顔を持つ武人だった。江戸時代260余年の泰平の世の礎を築いた天下人の人物像を振り返る。 写真はこちらから→欧州やアジア各地と積極的に交易し、鎖国は考えていなかった家康【徳川家康 逆転の後半生をひもとく】

「家康は海外との交流をめざし鎖国は考えていませんでした」

江戸幕府3代将軍家光の統治下、日本は鎖国状態になった。NHK大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を務める静岡大学名誉教授の小和田哲男さんが語る。

 

 

 「以前の学校教育では、江戸時代の日本は鎖国により外国との交流が閉ざされていた、と教えていました。近年その見方が変わっています。

 

 

九州の長崎と対馬、鹿児島の坊津、北海道の松前の4つの窓口があり、欧州や東南アジアとの交流は続いていました」

 

 

 慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の半年前の3月、オランダ船リーフデ号が豊後(大分県)に漂着。

家康は船を大坂に曳航させ、乗組員を収容させた。

そのなかにイギリス人のウィリアム・アダムスとオランダ人のヤン=ヨーステン・ファン・ローデンステインがいた。

 

ふたりは家康の信頼を得て江戸に暮らした。

 アダムスは三浦按針、ヨーステンは耶揚子の日本名をもらった。

耶揚子は、いまの東京の地名・八重洲の語源である。

 

 「家康はこのふたりから世界の情勢を聞きます。それにより海外貿易が莫大な利益を生むことを再確認するのです。実はこの前年、家康はイスパニア系のイエズス会宣教師であるジェロニモ・デ・ヘススからも海外情報を入手しており、メキシコとの交易を考えていました」

 

 メキシコとの貿易は実現しなかったが、家康は東南アジアの安南(アンナン・ベトナム南部)、暹羅(シャム・タイ)、大泥(パタニ ・マレー半島)などの君主に外交文書を送付、積極外交を進めている。

 

 「家康は信長の影響もあり海外との交流に意欲を見せていました。

キリスト教は締め出しましたが、鎖国はあまり考えていなかったと思います」

隣国朝鮮との交流

家康がこころを砕いたのは、隣国の朝鮮・中国明との国交回復だった。秀吉の2度にわたる朝鮮出兵(※1592年の文禄の役と1597年の慶長の役。秀吉の死により撤退・終結した。)により、この両国との関係は断絶していた。

 

 「家康は当時江戸にいて、この戦争には直接かかわっていません。

そのことを朝鮮からの使者に説明し、回復を実現させています

 

 慶長12年(1607)、朝鮮の使節が訪日。

江戸で秀忠に謁見し、駿府で家康を訪問している。

それ以後、将軍が代わると「朝鮮通信使」が日本を訪れるようになった。

 「明との修好回復は実現しませんでしたが、

家康はヨーロッパとも交流し、戦争のない平和な国づくりを目指していたのです」と小和田さんは語る。

解説 小和田哲男さん(静岡大学名誉教授・78歳)

昭和19年、静岡市生まれ。戦国時代を中心に日本中世史を研究。各地の城郭を歩き、歴史を多角的に掘り下げている。NHK大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当。『徳川家康大全』ほか著書多数。 取材・文/田中昭三 撮影/宮地 工 ※この記事は『サライ』2023年2月号より転載しました。

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