孝は自分を忘れることが最も重要である。この身全て親から受けたものである。王祥[1]は氷に伏せて魚を探して、郭巨[2]が自分の子供を埋めようとしたところ、金の釜を掘り当てたなど、無茶苦茶な話に思えるが、孝の至誠ある人でなければ分からないだろう。ましてや実行することはできないだろう。これは親がいることを知って身があることを忘れている。

 

さて、普段からの孝行の心がけは、親の心をよく理解して遠ざかることを基本とする。仕事をしなさいと言われれば仕事をして、遊べと言われれば遊び、朝起きろと言われれば朝起き、寝よと言われれば寝て、何事も従い尊敬することを自分を忘れる事という。

自分のために謀る者は思いのままに遊楽をして、夜更かしして朝寝して妻子とは仲良くすることがあっても、親には仏頂面して身を崩すようなことをしても反省もせず、親には何の世話もせず、自分は旨いものを食い暖かいものを着て、親の様子は全く気にせず、旅に出ればなかなか帰ってこず、大酒淫乱ありとあらゆる親の苦労を考えない、こんな不孝が揃ったようなものはそういないだろが、このうちの一つでもあれば不孝の罪である。これは身がある事を知って親がいることを忘れているからだ。

 


[1] 王 祥(おう しょう、185年 - 269年)は、中国後漢末期から西晋にかけての人物。「二十四孝」の一人。

[2] 中国、後漢の人。二十四孝のひとり。家が貧しく、母が食を減らすのを見て、一子を埋めようと思い、土にあなを掘ったところ、黄金一釜が現われ、その上に「天、孝子郭巨に賜う」と書いてあったという。

 

中にはね、親でありながら大酒淫乱ありとあらゆることをするのもいますけどね。不思議なもんで、親がはっちゃけすぎると子供はまともになることも少なからずあるようです。

 

親がきちんとしすぎると、それはそれで。

 

親が喜ぶことと子供が喜ぶことが一致するといいんですけどね。