また、宗儒[1]の説に、孔子が「性相近し[2]」と書いているが、それは気質の性であって、孟子の性善説は本然の性[3]のことを言っている。この見解は間違っている。既に孟子が知っている本性というものがあるならば、孔子でも当然しているだろう。もし気質の性の他に本然の性があれば、四端もないだろう。すでに、四端の概念で性善説を唱えているのだから、気質の性は疑いようもない。本質の問題か気質の問題かの議論が起こって、学問向上になりますます深く掘り下げ、高く上がり深く入り、これこそ孔孟の意図に大きく反する。

 

性の善悪を論じず、ただ日常の五倫の道を言うのは、尭舜孔子の教えである。尭舜孔子の教えの前に、空しく性について学び時間を費やすのは、単に迷っているだけである。生前を議論してはならない。ただ仁義があるだけだ。

 


[1] 儒学の大家

[2] 『論語』の「陽貨」

[3] すべての人が平等に持っているとされる、天から与えられた自然の性。

 

孔子は、「人間が先天的にもつ性質には個人差がないが、後天的な習慣の違いによって種々の大きな差が生じる」と考えているようです。孟子は昨日の記事のように、四端があるから、元はみんな一緒だよと言っています。この著者は、結論はどっちも同じであって、性善説か性悪説かなんて議論はそもそも孟子も孟子も望んでいないんだと言いたいようです。

 

これも遺伝子行動学や発達心理学で検証が可能になればどうでもいい議論になるでしょう。

 

新生児室に行ってみれば分かりますが、子どもってけっこう生まれたてでも個性があるんですよ。顔が違うだけでなく、なくタイミング、何に反応するか、つられて泣くか、どう体を動かすか、かなり個性があるように思えます。四端といっても、情報のインプットの感受性、反応のアルゴリズムとかなり差があるように見えるんですよ。

 

で、育った環境ってのもあると思いますが、どんな劣悪なところであってもきちんと成長する人もいれば、どんなに恵まれた環境でもあってもおかしくなるのはいるもんです。だからってどうしようもないと諦めるのではなく、五倫を意識させるだけでかなり制御できますからね。