どれほど仁義の道を教えても、性格の悪い者は自然と悪、性格が善であれば自然と善に、さらに教えに関係なく、自分で直そうと思っていても水を火にするようなもので、どうやって変えろというのかというものがいる。これを自暴自棄の人と言って弁舌をもって理を誤魔化し、道徳を分からなくしてしまい、自分から崩れる者である。こういうのを諭そうとすると水と火は性格が異なる。性格は二つではない。善悪の二つではない。

 

今私がここで悪をすれば悪だが、改めれば善になるではないか。これは一つのものであって裏表の関係である。火と水というような別物ではない。

 

また教えの効果があることは、小さい善であっても、習って何度も繰り返していけば大善に至り、小悪であっても放置していれば大悪になる。その悪も改めればすぐに善となる。こういうのは善悪の教えによってことなる。その自暴の人も善を善と呼ぶが、性格の善である。自分の意志によってのことではない。例えば絹を織るのに一筋を重ねたに過ぎないと言っても、ずっと重ねていれば一反の布になる。こういうのを倣って道に至るのである。

 

また一寸二寸に切ってしまえば絹とはならない。これが自暴自棄という事だ。

 

さらに捨ててしまい全く織らないとなれば一生絹とはならないだろう。これが自棄である。だからそういうときは、性格の善悪も自然の理も持ち出さずに、勤めていけば最後には人となるだろう。

 

その老荘も忠孝礼儀を嫌がって、家業の苦労な事を嫌がる者は早く傾きやすい。ただ人は人の道を行い、死ぬ時をもって終わる。それ意外に何を求めようというのか。

 

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老荘思想はともかく、善悪の判断がつかない人って本当にいるんですよ。人が嫌がっていることが理解できない、人の苦しみが楽しいみたいな人まではいかなくても、例えば検査をする人がみんな苦労して頑張っているからって全部合格を出すような人っているんです。本人は良かれと思ってやってるんですよ。こういう人って何度言っても駄目みたいです。

 

で、ある本には倫理教育は無駄だという研究もあるようです。全く無駄かというと、実のところ検証されてないだけだったりするんですよ。ただ、価値観の植え付けは可能なので、もしかしたら倫理的な教育もできなくはないのかもしれません。