火を粗末にする人はいないとは言うが、出火は粗末に扱うことから起きる。常々注意して粗末にしないことを用心という。とりわけ日鵜の用心には最も注意して、御公儀からお触れがあれば誰かを火の管理者にすべきである。念入り過ぎるという人は、冥加を分かっていない。火事に遭うだろう。走り馬に鞭という言葉があるように、民を憐れみ注意して火を用いても、有難く思って二度見しないところであっても、もう一度念入りにみることを用心という。昔から伝わるように、踏んで消さない人は、一生火災に遭わないという。この理屈はもっともなことである。というのは、火の神がいることが神代の巻に書いてある。

 

さて、三宝荒神[1]を神道風に色々名付けるが、神の体は火である。火は南方を司り、南三角取って三つ角である。

 

さて、その火は万物を成就するので三宝という。だから、吸い殻一つであっても火がついているうちは、三宝荒神の竈の神である。足で清浄なものを踏んではならない。言うまでもなく今あるのは水と火との恵みのお陰であるので、その恩を感じなさい。この理屈を聞き分けて大事にして粗末にしてはならない。粗末にしなければ火事には遭わないの理屈である。自分を粗末にして愛宕[2]に参拝すれば、留守のうちに愛宕の御札が燃えた事件がある。

 

人は火の恩を感じて、愛宕を信じなさい。そうすれば火事に巻き込まれない。これを理解しないで愛宕を信奉するのは、まさに知恵が欲しいと文殊を信奉する、即ち阿呆のようなものだ。愛宕は火の恩を感じて火を恐れて用心して正直を守る。愛宕さまを火の体として拝み、火に注意して信じれば火事から守ってくださること、疑う余地はない。

 

人の身の 土屋拳や かずらの葉 御法の秋に 枯れて静けさ

 

この歌を小さい紙に書いて家の南側に貼っておきなさい。火災除けになると言われている。これは、東福寺聖一国師の言い伝えと言われている。

 

西近江の坂本にかくれんぼの地蔵というのがある。昔世の中に出て子供にこの歌を教えになったと言われている。土は愚痴である。かずらの葉とは貪欲の意味である。この三毒をなくせば火は鎮まる。火を鎮める神事も心である。土は火では燃えないものである。

 


[1] 三宝荒神(さんぼうこうじん、さんぽうこうじん)は、日本特有の仏教における信仰対象の1つ。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神である。不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祭られることが多い。

[2] 愛宕神社の祀神は火産霊命(ほむすびのみこと)である。

 

 

以前にも隣の家が燃えたという話をしたことがあります。台所から出火して丸焼けになりました。間に駐車場を挟んでいましたが、車三台が燃え、自分の住んでいたアパートもかなり熱くなりました。

 

あのときはそれで済みましたが、江戸時代からの旧市街地区例えば谷根千であったり、新潟島だったり、そういう地域はすれ違いもできないような廊下のような道を隔てて家が並んでいます。こういう地域は燃え出すと数十軒が一挙に萌えますからね。これから、ますます火を使う時期ですので、気をつけたいものです。