中年に至ってからは人との付き合いは、仁義礼智信を教えて天から与えられた徳を明らかにして、家をととのえて身を修めることに専念していま生活することを襦と名付けて、老年期になったら寂滅[1]の道理を説き、欲から離れて勧善懲悪を教え慈悲を示すことを仏法という。『孟子』には、「胸の内が正しければ、その瞳は明るく澄んでいる。[2]」胸中に邪なことがあればいうことも明瞭ではない。経には「信の道の源、功徳の母となるだろう。」。『心地観経[3]』には正しく見る者は国の福田となるとある。正直な人は、神が宿り、胸には仏が宿る。彼に会って話を聞くとき、天竺も唐土も正直を神の道とする事を第一に考えなさい。だから天竺の人も神仏需から離れることはなく、他の国でもこの三つは避けることはできず、これは皆天地の三輪から分かれた胸中の仏である。

 

神の正直は儒教でいうところの信である。仏教でも涅槃には信があれば入れるとある。だから三つの宗教は同じである。

 

ただ邪な心がないことである。天地の三輪は外国では孔子、天竺では釈迦と同じ、日本では天照大神をあがめる。その大神宮は正直の本体である。絶対に邪なことをしてはならない悪い事をせず善い事を行え[4]の考え方はどのお経でも共通することだ。心だけでも信の道に従えという神明の歌であるから、よくよく弁えて正直に基本としなさい。祈らなくても神は守ってくださる。

 


[1] 悟りの世界

[2] 原文は、『孟子』巻第七離婁章句上 七十五節『胸中正、則眸子瞭』「胸中正しければ則ち眸子瞭らかなり」

[3] 『大乗本生心地観経』のこと。森林生活をし、心地を観察して妄想を滅し、仏道を完成すべきであると説く。

[4] 『法句経』に謳われた語句。「諸悪莫作衆善奉行」

 

これはつくづく思いますが、山にこもり修行をするより日常生活で「信」を守る方が余程難しいと思いますよ。だからこそ、商売は修行という考えが生まれたのでしょうね。

 

とは言え、商売は商売、修行であってはいけませんよ。